通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 昭和21年11月の機構改革 |
昭和21年11月の機構改革 P143−P147 昭和21年8月、市長に就任した坂本森一の市職員への第一声は「民主政治とは民に阿(おもね)ることではない常に民の幸福を主体とする政治である」であった。彼が最初に取り組んだのは、市役所の機構改革と人事配置であった。当時の市役所の機構は1局1室13課1出張所の体制で、昭和15年に改編されたものであったが、昭和20年10月に防衛課を衛生課、兵籍課を戸籍課と改称、警防係と兵事係を廃止し、復員事務を担当する整理係を設置するという改正がおこなわれていた(昭和20年10月7日付け「道新」)。昭和15年「改編の基底精神をなしたものは戦争遂行への合理主義」で、「敗戦、平和の鐘の中でその機構は局部的な弥縫的修正を加へられたまま温存してゐる」との評価があった機構で、「政治を行ふものは人であり人に政治を行はせるものは機構である、人と機構こそ例外なく坂本政治が先づ解決しなければならぬ緊急命題であらう」(昭和21年9月28日付け「道新」)との期待がかけられていた。また、函館の経済界の意見を聞く機会も設けられた。9月3日、函館商工業連合会主催で新川町共愛会館に市内の経済関係者50人余りを集めて坂本新市長を囲んでの意見交換会がおこなわれ、市が取り組むべき課題について話し合われた。課題のおもなものは次の3点で、付された意見にも、1日も早い取り組みへの期待感がにじんでいた(昭和21年9月6日付け「道新」)。一、政府では本道に府県制を実施すべく計画中のやうだがこれを機会に万般を道庁の指示に仰がなくとも時宜に即して自主性のある市政その他を行ひ得ないものか 市町村長の権限を拡大して中間的行政官庁(例へば渡島支庁の如き)を排除すべし
機構改革を終えたところで、坂本市長は「函館再建の構想」を語った。その柱は、函館を道南および東北3県の拠点とし、函館港を国際商港とすることと観光開発は渡島半島全域を視野に入れて函館山の観光開発に力を注ぐことであった。 即ち函館市は単に函館市のみの狭隘な地域をもつて都市封建的政治を行うべきではなく、少なくも長万部以南檜山渡島両支庁管内地区並びに東北地方の太平洋岸に面した青森、岩手、宮城三県を包括した一ブロツクをその政治圏内としなければならぬ、以上の地区は政治経済上不即不離の有機的関係に置かれているもので函館は同地区のピラミツトの頂点として特に近い将来講和条約締結後地理的に対華の貿易の枢要位置を占めている点から推しても北方の大商港として発展しなければならぬ……そのため近々市長は草鞋がけで道南(渡島、檜山管内)各町村を訪問し親しく町村理事者と″炉端談話″する予定である……また函館山の観光化並びに道南国立公園化問題も漸次具体的動きをみせているが大ざつぱにいつて函館−福山−江差−八雲−森−大沼−戸井を連結する大観光環状道路の建設を必ず実現しそのまま産業路とするがその暁には函館は同地区の心臓部となること必至である……煎じつめれば函館を国際商港とするため道南の産業開発と観光化を並行し東北三県を船舶によつて結ぶというのでこの太い方向へ派生する諸問題を結びつけて行くというのである(昭和21年11月29日付け「道新」) 坂本市長はこの構想表明を「函館市民の好意に酬いるため私は今度籍を函館に移しこの山に骨を埋めることにしたが非常に嬉しく思う。私は私なりに微力ながら函館市の生成発展へ余生を捧げる覚悟である」と結んでいる。この機構改革を実施した時、坂本市長は函館再建計画をサポートするそれぞれの分野での「エキスパート」を起用する企画、港湾、函館山保勝の3委員会を立ち上げることを決め、12月の臨時市会にその経費(委員の費用弁償)を補正予算として提案した。しかし補正提案方法が不備であったこともあって、補正予算は認められなかったが(昭和21年「第七回臨時市会会議録」)、臨時市会終了後3委員会は立ち上げられ、委員名簿が公表された。 △函館山保勝委員会 高木直行 東出洋三 谷脩治 林吉彦 関茂 原忠雄 登坂良作 岡村成儀 小熊信一郎 影山誠一 芳村小兵衛 田辺三重松 相馬確郎 村川喜七 村山佐太郎 窪田長松 町田利兵衛 寺本元平 阿部龍夫 斎藤與一郎 桜庭亥一郎 杉崎郡作 中沢武夫 今田敬一 折下吉延 田中順三(26名)(※中沢武夫以下4人は顧問) △港湾委員会 富永格五郎 岡田幸助 渡辺二郎 堤清治郎 橋本筆次郎 渡辺孝平 森元泰 谷弥太郎 小林信次 金瀬覚造 石川昇栄 安芸真孝 小川弥四郎 森博 高見忠雄(15名)(昭和21年12月22日付け「道新」) △企画委員会 浜下改三 伊藤善七 伊藤七三 池田康光 池田源之助 西館仁 西島儀助 茶碗谷徳次 大島三郎 恩賀徳之助 館俊三 高岡梅次郎 成田惣八郎 臼木豊寿 野塙竹治郎 日下部久次 山崎松次郎 京田直一郎 餌取賢全 秋山初太郎 菊池洲二 島田公平 森七郎 瀬川一郎 宗藤大陸(25名)(昭和21年12月29日付け「道新」) なお、市会では当初委員は市会議員を除いて考えていると答弁していたが、委員名簿には市会議員も含まれているので、その後何らかの調整がおこなわれたものと思われる。 各委員会とも所轄の総務・土木・港湾課長の推薦により民間有識者を委員に任命、月1回委員会を開催して市長に活発な進言をおこなっていくというシステムであった。とくに企画委員会委員は広範な範囲から指名され、市行政全般の企画を視野に入れ、翌年2月の委員会では、市の新財源捻出案について協議し、新設独立税5件、観光株式会社設立、富くじ発行、競馬実施などを委員会案として提示した。なかでも新設独立税のうち閑畳税は注目された。居住人員当りの畳数を設定し、それ以上の畳数がある家に課税し、畳1枚に1人以上が生活する世帯には扶助しようとするこの計画を、「北海道新聞」は「閑畳税という特殊な新税が光っている。それは住宅難緩和と大衆課税回避という社会政策的目標予算ねん出の一石三鳥をねらつたもので……住宅開放の声を空吹く風と聞く者に対する再配分の強い抗議が含まれ、これが企画委員会の革新的な意見として表現されている点に注意されるし、これを直ちにとらえ急テンポに実現している市の意欲的流動性に注目したい」と報じている(昭和22年2月14日付け「道新」)。 なお、昭和22年9月の市税条例(『函館市公報』第8号)で新たに傭婦税(歳入決算書では「接客人税」となっている)、原動機税、特別営業税、娯楽税、閑畳税の5税が新設されているので、新設独立税5件というのはこの5税を指すものと思われ、閑畳税は畳1枚当り15円となっている。税収は表1−20のとおりで、昭和23年6月の市税条例改正で廃止されている。 「単に函館山の観光化を図るものでなく、全市の観光関係団体、芸能団体を一丸とする市の文化革新機関」としての役割を担う函館山保勝委員会、「大函館港の建設を夢見ている」港湾委員会とともに、この3委員会の設置は「函館市政が示す熱情的方向……市民のすべてが市政に参画するという理想」とされ、その活動に期待が寄せられた(昭和22年2月14日付け「道新」)。 この機構改革は函館市の戦後の出発点となった。坂本市長は翌年4月の第1回統一地方選挙で再選された後に手直しをおこなったが(8月1日施行)、総務局にあった会計課を市長直属に変更した以外は若干の修正だけで継承した。ただこの時、事務分掌条例も制定したが(表1−21)、その事務分掌に「企画」事務は書き込まれていなかった。 しかし、坂本市長の急逝(昭和21年9月18日)後も、この3委員会は存続していたが、その活動については不明である。その後地方自治法の施行を受けて、昭和23年2月14日に「函館市専門員会規則」が施行され(『函館市公報』第19号)、財政、経済、教育、港湾、観光の5専門委員会(委員の任期は1年、会長は市長)が設置されて、先の3委員会は自然消滅となった。昭和26年3月9日に社会福祉および衛生に関する事項を担当する厚生専門委員会が増設された。ただ専門委員会開設に当って「市是確立の大綱を審議する」と報じられていた(昭和23年1月7日付け「道新」)。
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