通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 在留中国人の苦難 |
在留中国人の苦難 P1235−P1237 この時期の日中関係は、中国自身が分裂状態で、日本とは宣戦布告のない交戦状態にあり、非常に複雑な状況下にある。この頃の外交の実情については百瀬孝著『事典 昭和戦前期の日本』にわかりやすく整理されており、以下もこれを参考にした。昭和12年7月7日、蘆溝橋で日中両軍が衝突した。当時「支那事変」と呼ばれたがこれが日中戦争の発端となった。そして同年12月13日には南京が日本軍に占領されたのである。しかし、この時点でも国交断絶や宣戦布告もなかったので、駐日大使や各領事もすぐには引き揚げをはからなかった。函館では中国弁事所副領事羅集誼に対して、函館血盟団名義で、本国へ引き揚げよという脅迫状が郵送されたり、この機に乗じて副領事を訪ね金銭を強要する者も現れるなど、市民の中国や中国人に対する敵対感情は増幅するばかりであったことがうかがわれる。 同年8月11日にはラジオや新聞で「日本在留の全中国人に引揚げ命令あり」との報道がなされた。この時函館では1つの悲劇が起こっている。20年来函館で海産商を営んでいた張梅圃が、投身自殺したのである。日本人妻子を残して引き揚げることに絶望的になったのだという(昭和12年8月18日「函新」)。函館高等水産学校の中国人留学生3名も、級友の援助で暮らしていたが、ついに大使館の命令で10月初旬に帰国した(同年10月11日「函新」)。 さて、日中間の和平交渉は進展せず、昭和13年1月ついに日本は「国民政府ヲ対手ニセズ」という声明を出した。これにより東京の許世英大使は帰国、各領事館や弁事所も悉く閉鎖された。函館でも1月31日に弁事所が閉鎖され、副領事羅集誼や書記愈少明、同愈海豊は横浜総領事館員と共に帰国した。 事態の推移を見守っていた函館華僑の中からも何人かの帰国者が出た。在函20年余になる毛皮商陶承憐一家(昭和13年2月9日「函新」)、同じく毛皮商で明治末から営業していた陶仕鉦の一家などである。彼は営業不可能となって離函したのであった(「外国人本邦来往並在留外国人の動静関係雑纂 中国人の部」外交史料館蔵)。統計的には函館在留中国人の数は、昭和12年に108名(『函館市史』統計史料編)、昭和14年で90名(同年9月5日「函日」)と、若干の減少が認められる。しかし多くは副領事の帰国に追従せず、表面的には日本政府の傀儡政権ともいうべき中華民国臨時政府(汪兆銘)を支援する態度を示したものと思われる。日本に留まって生活するからには、これは当然の帰結である。同年3月3日、中華民国臨時政府駐函館名誉領事には潘蓮夫が就任し、中華会館内に弁事所を置いた。そして全国の華僑団体同様、積極的に日本政府に従順する姿勢をみせた。例えば函館中華商会は恤兵拠金として57円30銭と、慰問袋34個を供出している。日本軍によって本国の同胞が悲惨な状況にある事実と、自身の保身という板挟みに、中国人たちが苦しまなかったとは思えない。しかし戦禍にある故郷に帰っても、生活のすべがなければやはり留まらざるを得なかったのだろう。北海道函館華僑総会会長の陳上梅は「金のある華僑は早めに故郷に帰りましたが、金のない私の父などは行商で食べていくしかなかったのです」と語っている(「異国に生きて」北海道新聞社『私のなかの歴史』7)。 昭和15年、日本は、南京に遷都という形式での汪兆銘政権を承認し、重慶の蒋介石政権は否認された。太平洋戦争勃発後、蒋介石政権は対日宣戦布告をしたが日本はこれを無意味とした。従って、日本からみると中国は敵国ではなく在留中国人も敵国人ではなかったのである。とはいえ、日本の官憲や市民にとっては外国人であり、彼らには不信の念を抱き、彼らもその厳しい視線は痛烈に感じていたのである。昭和18年に汪兆銘政権が対英米政権に宣戦布告をした時、「肩身が広くなった」と発言した華僑がいたことがこれを裏付けていよう。 さて、中華会館を中心にこれまで団結してきた団体組織は、どのようになったのだろうか。昭和14年末、東亜新秩序建設の聖業に積極的に協力をさせるという名目で、日本政府は各地の華僑団体を統合させる方針をたて、「全日本華僑総会」が成立した。函館にはこの下部組織として、「北海道樺太中華振興商会総部」が置かれた。翌年3月には東京でこの発会式と中央政府(汪兆銘政権)成立祝賀会を兼ねた大会が行われた。北海道代表として潘蓮夫らが出席、潘は座長に推薦され冒頭で挨拶を行っている。続いて同月26日、函館でも新政権樹立慶祝大会が盛大に催された(昭和15年3月26日「函新」)。北海道内及び樺太からも中国人たちが参集し、出席者は総勢78名であった。昭和18年に全日本華僑総会が懇親会を開催したが、この時の出席者の発言は「全日本華僑総会は会員の信用を失墜」しているとか「有名無実で余りあてにはならない」と、経済統制と日本政府の監視下のもとで成立したこの組織はほとんど無力であったことがうかがわれる。 では実際、函館の華僑の生活はどのようであったのだろうか。職業構成からすると、大半は呉服行商であったが、経済統制が強まる中、どんどん活動は停滞していったものと推測される。昭和17年の新聞には、「繊維製品の初違反/捕へて見れば中華国人」という見出しで一つの記事が掲載されている(同年1月22日「新函館」)。これは市内在住の中国人反物商が、1月20日から実施された繊維製品販売統制に違反したという報道である。先にふれた陳上梅一家は呉服行商をしていた父が配給制で仕事が少なくなり、森町に疎開していた(前出「異国に生きて」)。また日本貿易統制会の発足により、日本海陸産物輸出組合函館支部も整理統合が行われ、義記号(潘蓮夫)の営業権も買収されて、ここに終止符を打たざるをえなくなったのである(昭和17年1月31日「新函館」)。こういった厳しい現実に直面しては経済活動はもはや不可能であり、これまでの蓄財を切り崩す以外に、生活の糧はなかったのではないだろうか。 なお上述してきたような状況下で、函館中華会館の維持は困難を極め、潘蓮夫の犠牲的な負担も限界に達するようになっていた。従来大蔵省に地代を支払ってきたが、潘は昭和16年函館商工会議所にその処置について陳情を申し出た。その結果、商工会議所の仲介で翌年9月30日に大蔵省からこの敷地を買い取ることができたのである。 |
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