通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第5節 戦時下の諸相
2 戦時下の外国人

イギリス領事館とデンビー

ソ連領事館の動向

亡命ロシア人の受難

在留中国人の苦難

その他宗教関係者

亡命ロシア人の受難   P1233−P1235

 戦争下で最も複雑な事情にあったのは、革命を逃れて亡命してきていたロシア人たちかもしれない。彼らには帰りたくても故郷は失われていたのである。当時の表現では旧露あるいは無国籍人、避難民などと表現されている。敵国人ではないにしろ、日本の官憲からみれば外国人には違いなく、厳しい監視の目に晒され苦難の日々が続いていた。
 昭和12年、「支那事変」が起きると、ズヴェーレフ、クラフツォフ、ヤノフスカヤ、ナデツキイ、サファイロフの5名は恤兵拠金として75円を献金した(同年8月15日「函日」)。これは、日本政府に恭順するという一種のデモンストレーションであろう。ナデツキイはソ連国籍を取得してはいたが、思想的にはいわゆる白系よりであった。ところが、昭和19年にはソ連領事館内に居住しており、その立場は大きく揺れ動いている。外国でしかも戦時下となれば、きれい事では生きてゆけない現実があったのだろう。
 このようななか、昭和18年2月に「函館露西亜人協助会」が結成されている。これは函館に住む亡命ロシア人らが相互扶助の目的で結成したもので、故人アルハンゲリスキイの遺産3400円弱を基金とした。当時会員は12名で、会長はカラリョフ、副会長はクラフツォフ、幹事はアンナ・バトーリナとなっている。結成総会が開かれたのは、根崎のバトーリナの家である。ここはもともとアルフレッド・デンビーの居宅で、アンナ・バトーリナはデンビーの義妹であった。この会の具体的な活動内容は不詳であるが、恐らく生計に窮する同胞を援助するものであったのだろう。
 北海道庁は亡命ロシア人の動向に周到綿密な視察内偵を行っていたが、昭和17年12月に東京のレリメッシュ商会副支配人スタリコフの諜報活動に関連し、北海道内の亡命ロシア人6名、日本人2名の一斉検挙を断行した。このうち、小樽在住のカタエフはスタリコフの依頼により北海道内の軍事諸情報を提供していたもので、残り5人はその実情を知らずカタエフに軍事上の情報を知らせていたものである。コジマ・ズヴェーレフもこの時カタエフに利用された1人であった。彼は昭和8年頃室蘭から函館に移住し、松風町で洋服店を開き、のちに「ボルガ」という喫茶店を経営していた。同18年3月18日に札幌刑務所に送致され、7月2日に軍機保護法違反の罪で懲役2年が確定した。スパイ罪で服役した刑務所の生活がどれほど悲惨なものか、想像に余りある。彼は翌年1月7日に獄死し、遺骨は函館外人墓地に葬られた(馬場脩『函館外人墓地』)。同書では旭川監獄で死亡となっているが、死因は拷問と栄養失調のためと記されている。
 戦局がおしつまると全国各地で亡命ロシア人の諜報活動が摘発され、ソ連国籍に復する者も増え始めた。「日本在住亡命露人協会」はこの事態を憂慮し、昭和19年6月、全国の亡命ロシア人に、全力を尽くして日本政府を援助しなければならぬとの文書を配付した。彼らの立場がいかに切迫していたのかがうかがえよう。
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