通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 青函連絡船 |
青函連絡船 P1166−P1168 昭和15年、182万人を記録した青函連絡船旅客数は、18年に209万人とピークに達するが、20年まで、それ程の増減はみられない(表3−19)。旅客制限は、昭和19年2月14日の閣議決定で行われただけである。昭和20年の激減の理由の1つは、7月14日の連絡船に対する大空襲と、これによる連絡船喪失、乗車券発行停止(軍艦千歳、浮島及び船舶運営会樺太丸の応援、亜庭丸[3355]の助勢により、軍公務及び緊急旅客に限り乗船させた)による。亜庭丸は8月9日空襲を受け沈没した。
昭和5年8月第二青函丸(2493トン、43輌、87万8千円、神戸川崎汽船製造)、昭和14年第三青函丸(2787トン、44輌、238万円、浦賀ドック製造)、第四青函丸(2987トン、44輌、338万8千円、浦賀ドック製造)と次々に就航したが、これらの設計は、太平洋戦争前に完成していたものである。いよいよ貨物船補充の急に迫られた開戦後に設計製造されて就航したのが、戦時標準型船(船標船)である。これは「船舶建造の迅速化と資材の節約を目的とし、標準化した一定の型の船」で、「W型船wagon型船として性能を度外視、簡易化された低質船」であった(『青函連絡船史』)。以下の6隻である。
・第六青函丸、昭和19年3月就航、3194トン、44輌、浦賀ドック製509万円、昭和20年7月14日、空襲沈没。 ・第七青函丸、昭和19年7月20日就航、2850トン、44輌、浦賀ドック製500万円、定時運航不能。 ・第八青函丸、昭和19年11月就航、3135トン、浦賀ドック製550万円。 ・第九青函丸、2850トン、44輌、浦賀ドック製425万円、昭和20年2月事故沈没。 ・第十青函丸、昭和20年6月就航、2850トン、44輌、浦賀ドック製556万円、昭和20年7月戦災沈没。 これらは「もともと無理な構造であったため就航後事故が続出、加うるに4個のボイラーによる蒸気不足と相まって、定時運航の確保が難しかった」(同前)。 青函局は、これらは輸送需要に応えることはできなかったと述べているが、この船舶不足の時期に6隻もの船標船が青函貨物連絡船向けに製造され、たとえ「定時運航」はできなかったにしても、ともかくも貨物輸送を担当し切ったことは、評価されてよいと思う。それだけ、この当時の青函貨車航送は国家の重大事であったと認識されていたわけである。 |
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