通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 キング&シュルツ商会の設立と終焉 |
キング&シユルツ商会の設立と終焉 P1048−P1050 明治30年代のキングの海獣猟業については、全く資料がない。「血染の日章旗」と題して連載された記事によれば、日露戦争時に、コマンドル諸島に向けて日本の大船団が密漁に出た時、深く関与したとも伝えられている(明治45年5月6日〜18日「函新」)。また当時日本の陸軍と海軍に各々250円ずつの献金を申し出たりもしている(明治37年2月19日「函館公論」)。日本の勝利による戦争終結こそが、自身の活動に有益であったからであろう。ラフイン商会の経営に関する資料は、明治40年の所得税が95円だったことぐらいしか、わかっていない(『函館案内』)。因に外国商社トップのハウル商会は1795円であった。同43年、ラフィン商会から独立して新たに「キング&シュルツ商会(King & Schulze)」を設立した(「ディレクトリー」1911年版)。店舗はそのまま仲浜町にあった。シュルツは上海在住の共同出資者と思われる。業務のメインは当時注目をあびていた中国向け材木輸出であった。同社は「中国材木輸出入(株)(The China Import and Export lumber Co.Ltd.)」の代理店として、鉄道枕木を輸出したのである(同前)。小樽と室蘭には支店も設けたが、これは積出し港であったからと思われる。その後大正4年には、シュルツと別れて「合名会社E・J・キング商会」となり、木材輸出業務を拡張するとされた(大正4年6月18日、同7月8日「函毎」)。支店は小樽と釧路に置かれている。 大正7年、キングは怪我をしてその治療のために横浜に移住したが、函館商業会議所ではこれまでのキング商会の活動を讃えて次のような文面の感謝状を贈った(同年10月30日「函毎」)。 貴下明治三十六(ママ)年我が函館区に来住して海陸物産業を経営し、傍ら米国代弁領事を兼掌し盛徳以て終始一貫営々として其職務に精励せられ、殊に日露国交断絶に際し本道遠洋漁業の悲境に陥るや、蔭に之を擁護し欧州市場に対し本道物産たる木材雑穀海産物毛皮等を紹介して、以て販路の拡張を図り当港貿易の発展に尽瘁せられたるの功績は道民の永く之を徳として感佩熄まざる所なり。今や本道更に世界に向て市場を求め益々貿易の発展を期せんとする秋に方り、突如辞任の報に接す。本道貿易上寔に遺憾に堪ゑざるなり。希くは自重加餐本道の為将来尚多大の援助を与へられん事を。右当所総会の決議により茲に一書を呈し以て感謝の意を表す 函館におけるキングの活動は、地元の経済人から極めて肯定的にとらえられていたことがわかる。もっとも市民との接触は少なく、彼らの目からは立派な洋館や自動車を所有する違う世界の住人に見えたらしい。移住の際、これら家屋や自動車などが売却された。代弁領事館を兼ねていた邸宅は、「暖房器付き堅牢西洋造り」と売却広告が出され(大正7年8月9日「函毎」)、堤清六が引き取り、「堤倶楽部」として利用された。またアメリカから直輸入した自動車は、北海道庁の第1号の検査証を受け、函館で初めての自動車という由緒あるものだった。これはビリケン自動車の生駒という人が買取って、引き続き函館を走ったのである(昭和2年7月21日「函新」)。キングは翌年3月に横浜で亡くなった(大正8年3月28日「函毎」)。商会もこれで解散したようだが、釧路支店を任されていた坂井徳治は、現地でそのまま木材業を継続した。アメリカ領事館は、商会の従業員ヘウン(R.E.Heun)が代理事務を執っていたが、キングの死により大正8年7月に閉鎖された(大正8年7月5日「函日」)。 この後、函館や小樽がアメリカ領事館誘致運動を行うが、復活はならなかった。その理由は、北海道は現状も将来も経済関係上、アメリカにとって領事館を開く利益がない、とされたからであった(大正15年12月14日「函新」)。 |
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