通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 キングの来港と領事館 |
キングの来港と領事館 P1046−P1048 幕末・明治初期の貿易事務官(後に領事)ライス(E.E.Rice)という印象的な人物が去った後、函館にとってアメリカはそれほど身近な国ではなかったようである。ライスの後を引き継いだホーズ(J.H.Hawes)領事が明治8年に病死したあと、本務の領事は派遣されずにアメリカ美以教会の宣教師たちが代理で領事職を勤めるという状況だった。それも明治16年には終止符がうたれている(「在本邦各国領事任免雑件(米国之部)」外交史料館蔵)。一言でいって、函館の在留アメリカ人は極めて少なく、アメリカ船籍の入港については、明治20年代後半の数年、海獣猟船などの小型船舶がいくらか入っているのが目立つ程度である。 そのような中でキング(E.J.King)の来港は、函館とアメリカという関係では、ライスに匹敵するほど影響力のあるものであったといえよう。その理由は彼の存在が再び領事館を復活させ、また閉鎖させるほどであったからである。そういった背景には彼の財力と事業意欲があったと思われるが、以下にその詳細を述べよう。 最初に彼の経歴を述べておく。1866(慶応2)年、ニューヨークに生まれ、15才で海員となり22才で船長になった。そして明治25年に来日し、日本郵船株式会社に入社した。その2年後、同社の社員であったラフィン(T.M.Laffin)が会社をやめる時に同調し、彼が横浜でラフィン商会として外国汽船取扱業を始めるや、その函館支店長として来函したのである(『来日西洋人名事典』、「函日」明治45年5月6日)。 キングの函館支店は仲浜町8番地(スコット所有地)にあり、はじめの頃は船舶取扱・毛皮委託販売が中心であったようである。この頃千島列島付近には各国の海獣猟船が集まり、函館港はその寄港地、集散地として要衝にあったことは『函館市史』通説編第2巻に述べられている。キング自身も函館の商人石垣隈太郎と組んで、千島列島のラッコ・オットセイ猟に従事した(『現在之函館』大正6年)。石垣がこの事業に乗り出したのは、明治30年のことである。これによってキングに大きな蓄財ができたと伝えられている。 前述のように、この頃函館港にはアメリカ領事がいなかった。キングとすれば、アメリカ国民に通商上の便宜をはかるこの機関があれば、今後の経済活動にとって都合がよかったに違いない。一方、海獣猟船入港増加に伴うトラブルの発生も問題となって、アメリカ政府もその取り締まりに領事館の設置を認めたのだろう。明治37年4月、20年余り空白だった函館の領事としてキングが任じられたのは(前出「在本邦各国領事任免雑件(米国之部)」)、以上のような背景があったものと思われる。 キングの肩書きは代弁領事(consular agent)であった(同前)。この階級は本国から派遣され専ら職務に専念する領事とは違い、他の職業に従事することができた。従ってラフィン商会の函館支店の経営も続行した。同年9月キングは船見町の高台(現在の船見町3番地)に大邸宅を新築した(明治37年9月25日「函新」)。ここで領事事務も執られたので、「アメリカ領事館」と称された。今のところキングによる本国への報告書など、具体的な活動がわかる史料は不明である。ちなみに地元紙を見ると、アメリカ合衆国の独立記念日に晩餐会を開くなど、社交上の活動が多く報道されている。中でもキングが領事として一番華々しく振る舞ったのは、明治42年6月にアメリカ太平洋艦隊6隻が日本に来て、函館に寄港した時であろう。この時の函館市側の接待もまた大々的で、区会議員全部が発起人となる受入体制が取られ、その歓迎振りが連日新聞を賑わした。 一方、キングの代弁領事としての収入は、領事館収入の半額をもらうのみであり、海獣猟船が頻繁に入港した時以外、それほど収入があったとは考えられない。後年はただ名誉から開館していたものという(大正15年12月14日「函新」)。
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