通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 1 外国艦船の入港による影響 艦隊の御用達商人および市中への経済効果 |
艦隊の御用達商人および市中への経済効果 P1023−P1025
ロシア艦隊相手には「ロシアホテル」が対応にあたっていたが、その後は先にも紹介した柴田幸八が活躍した。恐らく彼は、ホテル時代にある程度ロシア語を習得していたのであろう。明治20年には、よくその任を果たしているとして、ロシア軍艦の艦長から、褒状をもらったという(同年7月20日「函新」)。 肉屋の森亀も大いに勢力をのばし、1901年版の「ディレクトリー」には、それまでの「肉、食料品店」から船舶物資の供給業者として、日・英海軍御用達という登録が行われている。3年後にはさらに露・独・伊海軍も加わった。 森亀の他にも、艦隊相手の地元商人が存在していたが、明治29年には同業者団体として「外国艦船売込商業組合」が成立した。この団体はその後、明治32年1月に沖商業取締規則が発布されたのをうけて一旦は解散し、そして沖商組合に発展吸収された模様である(同年3月29日「北毎」)。函館港の沖商の実態について明治41年の様子が記録されているので、紹介しよう。 沖商とは碇泊中の艦船に到り艦船乗込員及ひ船客を対手とする商売にして、函館港に於て之を業とするもの約百十名あり、此等は多く小商人なれとも中には船具商、毛皮商、食料品商の如き有力者も加はり、又外国語に通するもの十名程あり、此内には平生他業に従事し外国軍艦の来泊する時のみ此の商売に出つるものあり、(以下略)『殖民公報』明治41年第45号)。 艦隊が市中にもたらす利益は一概にはいえないが、明治29年では、税関を通したものだけで13万9240円であった(「函館商工業調査報告」)。この他乗組員が各自随意に使う金なども、相当なものであったことが推測される。こういった利益の分配をめぐって、地元函館商人にとっては色々なライバルが存在した。元来彼らは「無資力の先生にして英語の片言を真似する者に過きす」(明治21年8月25日「函新」)という程度であり、外国人商人に牛耳られていた。また長崎、横浜からも艦隊相手の商人が来函した。例えば明治22年には、長崎の片岡伊右衛門来函の記事が出ているが、彼は明治18年にイギリス軍艦が巨文嶋を占領した時、その用達をしたという人物である(同年7月26日「函新」)。こうして切磋琢磨しながらも、函館商人は力をつけていったのだろう。 艦船相手の商売は単なる必需品の需要だけではなく、洗濯、郵便為替、貸し馬や貸し自転車、通船、骨董品、毛皮、貸し座敷、理髪、写真と幅広い分野に及んでいた。中でも「チャブ屋」(広辞苑には「横浜・神戸などの開港場で発達した、船員や外国人相手の手軽な小料理店」とある)は、函館でもけっこう繁盛したようだ。大正4年の「外人相手のチャブ屋」の実態は「末広町の『末広軒』に、会所町の『ウェルカムホテル』に『アンデレス』『浦塩軒』等凡で十二三軒位のもので、彼等は外人相手丈あって、その活動期は丁度今頃からで一ヶ年を通じて僅か六ヶ月間位に一年中の生活費を得るのである」(同年6月24日「函新」)という具合であった。 |
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