通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第8節 諸外国との関係

1 外国艦船の入港による影響

各国東洋艦隊の寄港

洋食材料の需要

艦隊の御用達商人および市中への経済効果

洋食材料の需要   P1022−P1023

 外国船の需要に対応するために、それまで函館になかった食品製造業が生まれた。これらの仕事の担い手は最初は主に外国人であった。製パン業では元治元(1964)年からフランス人メイナール(A.Menard)が在留している。軍艦へのパン供給を行っていたが、明治初期にウラジオストクに移ったようだ。また「ロシアホテル」でもパンを作っていたが、明治12年に廃業し、旧従業員の柴田幸八らが、市中でパン屋を開業している。
 この業界で成功したのは、中村作兵衛の「東洋堂」であった。明治5年に常陸国(現茨城県)から来函し、外国人が利益をあげているのに発奮、これを業とした。明治12年の函館農業博覧会に出品したパンが賞を得て、名前が知られ、翌年はイギリス艦隊13隻に独力で16、7万斤のパンを供給した。その後も順風満帆であったが、明治24年に没した(同年6月23日「北海」)。しかし由緒ある「東洋堂」の看板は引き継がれ大正末期頃まで掲げられていた。
 食肉販売はアメリカ人スミス(C.Smith)が安政6(1859)年から、後にイギリス人ビューイック(G.Bewick)も店を開いている。パンの「東洋堂」に対し、肉屋で名をなしたのは山田亀吉経営の「森亀」であった。山田は東京に生まれたが、青森県の牧場で働き、それから明治8年頃函館に来てトムソン(G.H.Thompson)と共同で牛肉店を開いた。トムソンは、イギリス海軍などの御用達であり、「森亀」は軍艦への食肉、家畜の供給の大部分を占めたのである(『北海道立志編』)。なお牛は主に函館近郊の牧場で飼われていたが、青森からも運ばれており「フランス軍艦用に契約した南部大間からの牛一八頭を積んだ船が入港しない」(明治20年7月21日「函新」)との記事もある。
 軍艦ではまた清涼飲料水が大いに売れ、中でもラムネは人気が高かった。横浜や神戸あたりから移入されたが、明治22年、渡辺熊四郎が舶来のラムネの製造機械を購入、翌年その機械ではじめて製造に成功したのが、後に酒造業者として大成する菅谷善司である。この時作ったラムネは、注文を受けて停泊中の軍艦に供給されたという(越崎宗一『開拓使前後』)。それ以降は、北水舎や石垣隈太郎など市中にも複数の業者が林立するようになった。なお石垣は、小樽にも工場を作り販売した(明治29年7月5日「樽新」)。
 乳製品は輸入品が流通していたが、明治20年に七重農業場で生産されたバターは、この年函館に入港した各国軍艦に賞賛され、長崎に転任したロシア領事も注文してきたほどであった(同年12月15日「函新」)。トラピスト修道院の乳製品も、あるフランス軍艦の艦長は函館へ来た唯一の楽しみと語っている(昭和4年8月19日「函新」)。
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