通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業

7 大正・昭和前期函館陸上交通

2 道南交通網の発展

長輪線開通

国鉄道南鉄道・軌道敷設

道南のバスと輸入車

民間飛行場誘致運動

*1 誤り、正しくは「大正10年1月11日の「函館日日新聞」」

道南のバスと輸入車   P557−P559

 自動車は大正3年7月函館区で米国領事館に乗用自動車1台輪入されたのが始まりと、大正10年1月11日の「函館新聞」は報じている(*1)。しかし、大正2年12月7日の「函館新聞」は、江差通信として、函館江差間に、同年12月15日、自動車が開通すると報じている。その自動車は、12人乗り、日本式に考案したドイツ製、車はシリットタイヤ、使用期間は5か年というから、乗合自動車、つまり、バスである。だから、この江差バスが、道南で最も早い自動車ということになろう。
 このバスは、根拠地を函館とし、午前6時函館発、同8時30分江差着というから、所要時間は2時間半である。帰りは江差発9時、函館着11時30分となる。第2便は、正午函館発で江差着が午後2時30分、帰りは、江差発3時、函館着5時30分。つまり、定期バスである。このバスは、山頂を走行するので、運転手は、飛騨高山−岐阜間を走るバスの熟練者を使用すると報道している。同新聞の大正3年4月10日号には、このバスが4月9日到着したこと、運賃は江差まで1人3円と、高価なことを報じている。
 第1次世界大戦終了と共に、函館区に乗用車が、俄に入るようになる。それは主として、3つの方向、つまり、乗合自動車、タクシー(共に営業車)及び少数ながら、官庁(消防署を含む)、会社、個人に、利用された。
 大正時代の自動車は、すべてが輸入車で、従って、欧米、とくに、アメリカのメーカーの猛烈な売込合戦が行われている。大正時代の自動車、とくに、バスとハイヤー、タクシーの普及は、これら、アメリカのメーカーの世界に向けての大量販売、従って、値引き合戦の結果ともいえる。その中心は、アメリカのフォード社で、大量生産による低価販売政策をフルに活用して、日本市場を制圧していた。これに対抗したのは、デトロイトのゼネラル・モータースで、価格の高いビュイック・シボレー・キャデラック等を売込んでいた。それぞれ特約販売店を設けて、熾烈な売込合戦を展開していた。昭和2年、函館市内の両者の勢力は、フォードは、乗用貨物車計70台、ゼネラルモータースは、シボレー6台、ビュイック3台、ジェムラー1台である(昭和2年2月14日「函日」)。フォードの代理店はセール商会。
 大正8年11月1日の「函館日日新聞」は、函館自動車会社(大正7年創業)が、上磯から上磯郡知内間に2回の定期便を発し、上磯・茂辺地・当別・木古内・知内各村に駐車場を設けることを報じている。同紙は「従来、発動機船若しくは当別丸によって海路函館と四往復を為すか、または、例のガタ馬車による外無かりし交通を、上磯知内間約三時間、乗車賃三円五〇銭、日帰り可能(海運の場合一泊往復二日)にした」と、歓迎している。更に同バスは、明年福島村まで延長を計画していると伝える。
 大正9年8月23日「函館日日新聞」の広告によると、この函館自動車株式会社は、高級車スチウト・ベーカー2台、ビュイック2台、マックスウェル1台の外フォード6台を所有し、本社が蓬莱町28番地、支店が大門前にあり、外に鍛冶町支社(鍛冶町23番地)、若松町支社(停車場前)がある。上磯知内間乗合営業部が上磯駅にある。函館駅発午前8時50分、午後2時55分発の列車に乗って上磯駅に行き、そこから、バスに乗る、とある。帰りは、函館駅着が午前10時40分、午後5時5分である。
 大正14年6月27日の「函館新聞」は、湯川戸井間のバスが7月1日開通と報じている。料金2円。午前8時、11時、午後4湯川発。戸井発は7時、11時、午後4時。
 その前の大正7年に、函館湯川間に自動車専用道路が出来て、10月10日から運転開始が伝えられている。これは、旭自動車株式会社のバス路線で、起点が大門前、終点湯川松倉橋、定期時間は、本社発午前7時より午後6時まで、湯川発午前7時から午後6時半まで、1時間毎に発車、片道1人に付25銭、定員6名とある(大正7年10月10日「函新」)。
 その外、函館市内及び近郊を走るバス会社として、次のようなものがある(昭和12年12月20日「函日」)。
◎函館乗合自動車合資会社。昭和3年、若松町停車場前−根崎間2里3町、高砂町13番地中の橋経由五稜郭1番地先26町の路線を営業した高木荘治より、昭和5年函館水電株式会社が継承した。駅前−銭亀沢村大字根崎宇土場10番地先(20銭)8.27キロメートル及び駅前−五稜郭本町99番地間4キロメートル(10銭)
◎旭自動車株式会社。大正7年、松風町6番地−根崎間6キロメートルを4台で営業、昭和5年、若松町117番より根崎に路線変更。海岸専用道路を来往し下海岸自動車と接続の便あり
◎臨港バス。昭和9年万代町64番地−人見町肥料会社間1.61キロメートル。亀田村民及び高等水産学校生徒が利用。
◎下海岸自動車。昭和3年創立、下海岸道路の竣工と共に漸次路線延長、昭和7年、湯川椴法華間48キロメートル全線開通。
◎川汲自動車。大正14年川汲山道開さく後湯川村藤野自動車部が創立、函館市並に湯川と茅部地方とを結ぶ定期バス
(以上『函館市誌』)。旭自動車に昭和12年9月大沼線(函館−大沼公園前)、大野線(函館−大野村間)の路線が免許されたが、昭和14年5月、道南自動車株式会社(社長河合繁)と同2路線の譲渡契約を結び昭和15年、譲渡を許可された(函館市交通局『市電50年のあゆみ』)。
 総括すると、鉄道を補完する函館近隣町村連絡旅客運送を、民間バスが担当したということである。そのどれもが、函館駅を始発及び終点としている。
 昭和12年10月7日「函館日日新聞」は、恵山バス運転開始を報じている。下海岸自動車株式会社(湯川町)が同年10月10日から運転開始するもので、湯川発午前8時と午後1時の2便、恵山まで。恵山発は午後零時40分、同4時半の2便である。片道2円10銭。
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