通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業

7 大正・昭和前期函館陸上交通

2 道南交通網の発展

長輪線開通

国鉄道南鉄道・軌道敷設

道南のバスと輸入車

民間飛行場誘致運動

長輪線開通   P553−P555

 道南の鉄道、自動車道路及バスは、大正、昭和を通じ、少しずつ設置されてきた。これらはすべて函館駅を発着点としている。函館駅は、これによって、道南交通のターミナルとなった。並行して、函館駅は、市内交通網の発着点ともなってきた。
 道南交通網展開の第1は、昭和3年の長輪線の開通である。この線は、輪西駅と長万部駅とを結合させて国鉄室蘭線と函館本線とを連結するものだった。現在、JR北海道の基幹線の1つ、南廻り札幌−函館線、千歳廻り函館線の基本である。「総延長四七哩七六鎖二三節五」と、当時数えられたこの線は、札幌−岩見沢−室蘭−函館をつなぐ幹線で、函館本線より2時間スピードアップされると共に、北海道の空知夕張炭田と直結する。国鉄は、「本線は北海道に於ける所謂拓殖鉄道と其の趣を異にし都市より都市を結び港湾より都市を連絡する本道中最も優秀なるエコノミカルライン」(『長輪線建設概要』)といっている。
 大正8年起工昭和3年竣工の本線は、総支出1561万円余の大工事で、難関は、静狩から長万部間の礼文華峠の貫通であった。トンネル19か所(費用628万円)、橋梁32か所、停車場11か所である。新設停車場は次の通り。
 長万部−静狩−礼文−小鉾岸−弁辺−虻田−有珠−長流−伊達紋別−稀府−黄金蘂−本輪西−輪西
表2−114 長輪線建設における人夫・職工賃金(直営工事)
                          単位:円
区分
大正10
11
12
13
14
昭和1
2
3
並人夫


女人夫


土方


電信人夫


坑夫


大工


鳶夫


煉瓦工


石工

馬夫
1.8
1.95

1.40


2.50


2.00
2.30





3.00










1.80
2.70

1.50


2.80
2.90

2.20
2.55

3.00


3.00
3.50

3.30
3.50

4.00


4.00

7.20
2.00
2.60

1.20
1.50




2.40
2.50

2.90
3.00

3.50
3.80

3.50


4.00
4.50

4.00

6.20
6.50
2.00
2.55

1.20





1.80
2.40

2.90


3.00
3.80

2.50
3.50

4.00
4.50

4.00


2.00
2.55

1.20





1.85
2.40

2.90


3.50
3.80







4.00

4.00
6.50
2.00
2.55

1.10
1.30




1.95
2.40

2.90


3.50
3.20

2.60
3.50

4.50




4.00
2.25
2.55

1.20





1.95
2.40

2.90


3.50
3.80

2.60
3.00




3.80


2.20


1.20





1.95
2.45




3.50


2.60





3.50

6.00
『長輪線建設概要』より
注)本線中、直営工事に使役した職工・人夫の賃金で、これら労働者は、雇用契約により請負者に雇用された。
 この大工事の請負業者は、飛島組、橋本組の2社が中核で、外に川村組、関組その他が加わった。請負業者の雇用した労働者数は、わからないが、鑿岩機とダイナマイトを使う手労働で完工した。職工人夫の賃金は表2−114の通り(同前)。本表は、「本線中直営工事に使役した職工人夫」の賃金で、「雇用契約により請負者として供給」された労働者に関するものである。典型的な人夫供給業による労働者で、その賃金は、一定率を天引されたのち、「請負業者」から渡されるものではないかと思う。そうすると手取り額はもっと少なくなる。また、宿舎関係、労働実態の記載がないので、不明という外はないが、大正時代から盛んに鉄道建設工事に使われた所謂監獄部屋、拘束労働があったか無かったのか、問題であろう。そうだとすれば、労働者の手取り額は、なお一層少なくなる。それでも、わかることがある。それは、並人夫の日給が大正10年の最高1円95銭、最低1円80銭、大正12年〜昭和元年の最低2円、最高2円55銭が「雇用契約」を結んだ時の公表賃金であり、この額が他業種の「人夫」の一般的標準額ではないかということである。
 この長輪線建設運動は明治42年、函館市を中核に渡島開発期成会(会長函館商業会議所会頭)を結成、視察のため来道した後藤新平逓信大臣、大浦兼武農商務大臣に陳情したことに始まる。「南北海道開発の鍵は長輪線の建設にあり」昭和3年開通祝賀会における佐藤函館市長の式辞)という考え方で、以来11年、佐々木平次郎、平出喜三郎、堤清六、岡本忠蔵、松下熊槌、渡辺熊四郎、相馬哲平、小熊幸一郎、遠藤吉平など、函館市を代表する政・財界人が委員として努力した。
 昭和3年9月13日、開通祝賀会が市の公会堂で開かれたが、同日の「函館毎日新聞」は「全市を挙げて歓喜に満つる祝賀会、多年熱望の長輪線開通」という大みだしで報じている。その中で函館市会議長松下熊槌は、「そもそも本線は、明治四十二年以来の懸案にして、本市専ら其の必要を唱導し、大正七年、政府の容るる所となり……本線の開通は、実に本市在来の港湾政策、産業政策に一大改革を与うるものにして、即ち本線は、樺太本道本州間を連絡し、石炭木材その他原料品の移入頗る潤沢となり……」と述べ、その意義を要約している。佐藤市長は、その式辞で「函館市は南北海道の盟主たり」と言明している。「道南」が、函館港のヒンターランドだというイメージが定着したのは、長輪線建設運動の実行を通してであろう。
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