通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 6 倉庫業の変貌 4 貯炭場と石油タンク 貯油場 |
貯油場 P547−P549 石油は、『函館海運史』によると、明治16年、398貫、同17年、1万4861貫(2万440ガロン)が、缶入りの形で函館に入ってきている。以来、引き続き、相当量が入ってきている。しかし数量、単位が、大正13年まで、移入は函、輸入は缶入りガロンで記載されており、大正14年以降は箱単位となっており、統一的単位で年次別数量を把握できない。ただ、昭和に入ってから確実に増加したようである。しかし、昭和13年以降の移入は、不明である。『函館海運史』によれば、「道内の石油は、当時横浜、神戸より輸入されたのを内国商人が買入れてこれを函館に輸送、さらに函館から各地へ配送された」とある。輸入先は、米国が主で、明治32年から露領からも輸入されている。 『函館市史』統計史料編で石油、揮発油の移入、輸入をみると(表2−112)、移入、輸入共に昭和に入ってから、着実に増加している。大正14年から、移入は、単位が「箱」で示されるが、揮発油という精製石油の項目が新たに設けられ、「箱」単位で、相当量移入されている。輸入は大正13年まで缶入りの形状で、ガロン単位で入ってきているが、これがどれだけの「函」に換算されるのかわからない。輸入も、大正14年から箱単位で示される。輸入は、大正7年から、石油と区別される揮発油の項が起こされ、13年まで記されるが、大正14年から箱が単位となり、昭和6年まで続く。昭和7年から「原油・重油」と「石油(比重〇・七三〜〇・八七六二)」と2種類にわかれるが、石油は、昭和8・9年の両年、僅かな量だけが記載されている。単位は100ガロンである。石油移入は昭和9年、大正14年の3倍以上の18万453箱となる。揮発油は昭和11年の32万5000箱が最高である。輸入原油重油も昭和8年783キログラムとなる。しかし昭和14年からは、また、単位が変わり、キロリットルとなる。 ここにいえることは、大正8年以降、揮発油の形で精製石油が入ってきていること、石油は、原油・重油の形に変わりながらも、着実に函館に入っていること、荷姿が「函」「缶」「箱」の形で入るのが大部分であったが、輸入は昭和7年から、そうでなくなり、グラム、リットル単位に変更されたことである。これを受けて、始めて石油タンクが建造される。タンクという形で公式統計が現れるのは、大正10年以降の函館税関『函館港概観』で、石油貯蔵タンクとして、日本石油会社鉄製タンク容量3000石がみられる。 新聞記事では大正9年3月8日、「函館日日新聞」が、合同油脂会社が海岸町に市営埋立地に500坪の土地を購入、魚油タンク及び付属工場建設の旨を報じているが、これは魚油タンクで、石油タンクではない。 石油タンクは、大正13年6月6日の「函館新聞」に、橋谷合名会社(弁天町)が、海岸町函館測候所付近に約3000石の石油タンクを工事中との報道が初出である。このタンクは、高さ20尺、直径40尺という大タンクである。 次に昭和4年3月30日の「函館新聞」に「重油タンク三百噸竣成」というみだしで、函館重油タンク会社が、有江鉄工場の請負で、300トンタンクを竣成、「二千噸タンクは四月五日、千噸タンクは四月下旬出来」と報じている。樺太方面の鰊冷凍のため出帆する日魯の冷凍船第1船時は間に合わないが、第2船より使えるといっている。従って、このタンクは、北洋の冷凍船用である。結局、昭和20年代初期には、貯油場として残っているのは、表2−113の通りであった。
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