通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
5 大正・昭和前期の函館港

5 貨車航送船・翔鳳丸就航

翔鳳丸型就航

施設の第2次改良工事

翔鳳丸型就航   P529−P531

 大正13年5月、就航した翔鳳丸型4隻(翔鳳丸、津軽丸、松前丸、飛鸞丸)は、3500トン級の大船で、比羅夫丸の2倍以上の大きさを持った。乗客定員も895人と比羅夫丸の2倍以上である。この型の連絡船の特色は、船底に貨車25輌を積み込むという点にある。貨車航送船なのである。製造価格も高く、翔鳳丸は163万円余。一番安い松前丸でも142万円余であった。この型の船が、現代の近代化船、つまり、フェリー、ロール・オン・ロール・オフ型貨物船と同種のものであるのに間違いはない。しかも内航船としては、当時最大の規模であった。その特色は、本来の使命である旅客船としての機能を中核としている点にある。
 定期旅客船の特色は、安全性第一主義を守りつつも、高速船であるということである。この特徴を持ちながら、船底に25輌もの貨車を積むという処に当時としては、最高の技術と苦心を注ぎ込む所以があるのである。そのために、幾らかスピードが落ちるのはやむをえなかった。比羅夫丸が青函間を4時間で走るのに対し、翔鳳丸型は4時間半と少しおそいのである。貨物専用船、第一青函丸は、もっとおそく、5時間を要する。速力は、比羅夫丸型18.36ノットに対して、翔鳳丸型16.9ノット。しかし、この程度でおさまったのは、むしろ驚威的というべきである。その基本は、巨大な動力で、比羅夫丸の3367馬力の1.7倍、5730馬力という、当時としては、驚くべき規模のものであった。この4隻は、各船1日1.5往復をしたのである。それでも不足で、早くも大正15年12月、貨車専用船第一青函丸(2336トン、ワム型貨車44台を積む、82万円余)を新造して、漸く落着いたのである。
 この貨物需要の大であることは、開拓途上の北海道と本州を結ぶ青函連絡船の特色であった。
 翔鳳丸型の運航乗組員は、95名程度で、船体、能力が倍化しているのに比べると、甚だ少い人員増である。増加したのは火手など機関関係と船舶給仕、役夫(のち役手、貨物関係下級事務関係)など船客関係。全体としての労働生産力が倍増したといえそうである。この4隻の旅客船と1隻の貨車船を接岸させるために、桟橋が大きく変わる。第1に、木造が石とコンクリート製になる。桟橋のイメージでないので、新しい施設は、これから以降「岸壁」と呼ばれるようになった。大正8年本省が調査設計に着手、11年起工、14年7月竣工のこの岸壁は、実に工費250万円を要した(『青函連絡船史』)。


鉄道連絡桟橋貨車航送可動橋(『函館商工名録』昭和11年版)

 海底の地質が悪く、砂、泥土が平均干潮面33メートルも堆積していたため、大規模な浚渫を行い、清砂を埋め、その上に小石を敷き、その上にコンクリート詰めの大きなケーソン(小樽港建設に始めて用いられた)、つまり大函塊を53個据えつけ、その前面、背面を割栗石で固め、その上部をコンクリートで固めた。現在の若松埠頭がこれである。2つの鋸歯状岸壁から成り、総延長193メートルで、T字型桟橋の4倍に近い。基部に巨大な可動橋がある。水深6.7メートル。連絡船待合所は3階建ての総合桟橋駅として大正13年10月竣工された。工費19万円。翔鳳丸は全長109.7メートル、深さ6.7メートルの巨船。函館港と同時に青森港でも、280万円の巨費を投じて貨車航送船受入れ設備を建設した。竣工は大正13年6月である。これによって、貨車航送船の接岸荷役が可能となったのである。
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