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「函館市史」トップ(総目次)
第2章 20万都市への飛躍とその現実
第4節 戦間期の諸産業
5 大正・昭和前期の函館港
3 港湾運送業と労働者
港湾運送業者
港湾労働者
|
港湾運送業者 P517−P518
表2−93
荷艀の推移
年次
|
隻
|
大正2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
昭和1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
|
201
−
197
235
230
237
283
276
290
299
315
327
234
275
268
277
272
266
289
281
273
235
238
|
『函館海運史』より |
800万トンを呑吐する大函館港建設は、決して夢ではなく、戦後、形を変えて実現する。現在の函館港はすべて、この昭和3年の港湾構想によって生まれたといってよい。しかし、実際にこの時期の港湾運送を担当したのは、艀と賃金労働者である。つまり、肩荷役である。艀の推移を見ると、大正13年の327隻を頂点として、大正8年から昭和8年まで270隻から280隻となっている(表2−93)。
この時期が、函館港の盛期なのであろう。大正・昭和前期を通じて、函館港は艀荷役によって担われてきたのである。これは、昭和7年まで千トン級以上の大型汽船の繋船岸壁の無いこと、大型船は、沖泊りをせねばならないことを意味する。この艀を所有する「艀屋」は、海運業の下請として操業する。明治時代から引続く艀業者に、金森商船(定期航路の貨物扱い、屋号 )、岡村組(海産物扱い、 )滝野組(日本郵船専用、 )などがあり、また北洋漁業関係に宮崎運漕店(宮崎信太郎、 )がある。木下宏平は、戦前熟成期(大正5年〜昭和16年)の艀業者を11店、250隻とする(和泉雄三「戦中戦後の函館港湾運送企業」『地域史研究はこだて』第8号)。外に一印斉藤商店(斉藤五一郎、北日本汽船、嶋谷汽船の藁工品など扱う)、高田組(三井物産の荷、鋼材等。屋号、 )共立組(同上、 )、高栄組(岡田幸助、三井の函館汽船専用、 ) 佐々木組(石炭扱い)、 橋本組(橋本筆次郎、諸口)がある。高栄組と佐々木組は屋号が同じである(同系か)。
肩荷役を行う労働者は、船内業者、沿岸業者に雇用される。木下宏平は、同じ時期の船内業者は、ほぼ1業者40〜50人くらいの労働者を常備としていたといい、次の名をあげている。高木組(高木莊吉、北洋の日魯、日水関係の元請、屋号 )、丸山組(その下請)木村商店(木村多吉、北洋元請、 )、武越組(不詳、 )、三浦組(三井物産の元請、 )、伊藤組(北日本汽船専属、大阪商船元請、 )本庄組(北洋の元請、 )、古川組(古川栄八、北日本汽船など、 )、滝野組(滝野善治、郵船の元請、 )菅原商店(菅原源太郎、日魯関係、 )函青汽船(高村新次郎、函館汽船の元請)以上11店社。沿岸業者は7店社。宮崎運漕店(雑貨、 、前出)、四津組(北洋関係、 )、本庄組(同前、 )、木村組(前出)、高木組(雑貨、前出)、滝野組(雑貨、前出)、高栄組(同、前出)の7店社。船内業者が沿岸業を兼ねる場合が多い。
両業者は大部分、労働力の請負業専業者で、戦前、労力請負業者、あるいは人夫請負業者と呼ばれ、戦後、職業安定法上の労働者供給業者として一時きびしく規制された。船内、沿岸業者には、海運、商社から請負った時、既に自らが元請として、更に小さい人夫請負業者を下請にしていた者が多いようである。 |