通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 2 港湾施設の整備の停滞 第1期拓計の問題 |
第1期拓計の問題 P511−P514
函館港は、全国順位から見て、大正13〜昭和3年では9位、貨物量からみて昭和6年〜5年には8位という高い位置が与えられている(昭和11年『函館商工会議所年報』)。しかし入港船舶の登簿トン数では、大正13年、既に小樽港の下位に立ち、昭和に入ると、益々格差がひろがるようになる。このことは、確かに入港隻数では、函館港が小樽港より多いが、それは、小型船が多く入港しているからだということを示すのである。いいかえると大型商船は、次第に小樽により多く寄港するようになったということである。何故か。 大型商船が横付けできる埠頭、桟橋が、総括して海陸連絡設備が、小樽港より劣っているからだということ。それが第一。 大正期の前半はそれ程でもないが、後半になると海陸連絡設備の充実が、函館港の政治問題になる所以である。この原因は、大正13年12月着任した函館市長佐藤孝三郎(大正13年〜昭和3年11月まで在任)がいうように、第1期拓計(明治43年以降15か年計画で開始、総額7千万円)の港湾費の配分にあるということもできる。佐藤市長は、昭和2年4月の第2期拓計確立祝賀会の式辞で、函館港建設配分上「他港に比し著しき遜色あり…たまたま本港が天與の良港なるが故に後廻しとし、他の創設的方面に重きを置かれたるものと思料せらる」と鋭く批判している(大正15年9月6日「函新」)。これは、その後の経過からみて当っていると思う。第1期拓計で函館港が作った施設は、現在、函館の西端に位置する島堤の西防波堤(明治45年4月着工、大正7年完工)3030尺(幅20尺、高さ干潮面上3尺、捨石上にコンクリート塊をのせて作る)1本と明治31年竣工の第1防砂堤(区費)1500尺と同形の第2防砂堤(明治43年1月起工、大正7年9月完工)延長485メートル(旧国鉄有川埠頭の位置)、第3防砂堤(延長同じ、現在の臨海工業用地北端の位置、同時期)を作ったに止まるからである。全額道費だが主要部分は防波堤の137万円。この防波堤は島堤でこれによって不十分ながら、91万坪(300万メートル平方)の海面が一応被覆されたとされた。しかし、西北風に対しては不十分で、実のところ54万坪が保護されるにすぎなかった。ただし、明治時代大問題だった港内土砂の堆積は防止された。 この防波堤が被覆したのは、実は旧港域たる函館港だけではない。明治43年末に完成した国鉄の木造T字型桟橋も保護している。もちろん、この桟橋周辺の海底土砂の堆積防止にも第2、第3防砂堤が役に立っている。だから第1期拓計は、旧函館港および国鉄桟橋の双方に役立ったのである。 函館港だけを切り離して考えると、第1期拓計は、函館港の保護海面の拡大にきわめて有効であった。しかし、小樽港は、実質的には函館港の2倍の海面被覆を完成している。それは大型船接岸埠頭を前提としたものだった。『新北海道史』(第8巻・史料2)によれば、小樽港は、明治30年以降大正10年までに737万円余を投じ、北防波堤5636尺、南防波堤6077尺を建設して被覆面積110万坪を完成。昭和4年から16年までに1054万円を投じて3本の埠頭を建設、6千トン級の巨船をも接岸せしめる計画を進めている。室蘭は、大正7年から昭和2年までに北防波堤320尺、南防波堤1830尺を建設、240万坪の海面を保護し、将来8千トン級2隻、3千トン級3隻、千トン級7隻を接岸される計画を進めている。釧路でさえ66万坪の被覆水面を創るという。 大型貨物船の接岸荷役を可能とする港湾としては函館の54万坪は、余りに小さすぎるのである。おまけに、この54万坪の海面に国鉄T字型桟橋および国鉄諸施設が含まれている。国鉄は、T字型桟橋建設以降、その所要海域を専用水面として一般商船の侵入を遮断した。だから、それだけ函館港の一般商船利用海面は狭まったのである。 T字型桟橋の時期から大正11年着工、14年7月完工の若松埠頭建設以降に入ると、国鉄の海面専用区域は、益々拡大する一方で、従って旧函館港の海面は、狭まる一方である。函館港関係者は、ここに旧函館港海面の他に国鉄専用海面をまたいで、その外側つまり海岸町以北の地を新商港建設予定地とせざるを得なかった。大正前期までは、北洋漁業の開拓が目立つ。西浜町埋立の区案が大正5年否決されたのは、それらの反映である。大正5年2月20日の「函館新聞」は、折から提案されている区の西浜町埋立案に経済倶楽部が反対決議をしたと報じている。 明治末期から函館港拡大に非常な熱意を示している経済倶楽部が、埋立反対を決定したのは、その埋立が、西浜町地先海面埋立だけ切り離して行うものだからである。区の埋立の理由が、倉庫用地の拡大とされていたことも反対の理由であるが、何よりもモーターボート、ランチ、帆船を含む小型船舶の碇繋場をいよいよ狭めることが、その理由である(反対理由書、同紙)。決して「公有水面埋立」一般に反対したわけではない。 北洋漁業の根拠地としての性格がいよいよ明らかになる大正14年、函館海運貨物量は、一挙に増大して、280万トンとなり、以下300万トンを切ることはなかった。また石炭を燃料とする「汽船」の隻数も、北洋漁業の根拠地港に変貌したからといって減少したわけではない。大正2年の5989隻は、大正10年の5078隻を最低として、常に5500〜5600隻台を保っていたが、大正13年には、ついに6565隻に達し、以下7千隻を割ることはなかった。昭和2年、9175隻に達し、増大の一途を辿る。 確かに青函連絡船が大型化(大正13年、翔鳳丸型4隻、各3400トン台・貨車航送船)して就航し、大正14年、鉄筋コンクリート製の繋船岸壁、若松埠頭が供用されて、国鉄の商港機能は、飛躍的に強化された。しかし、この埠頭は、一般商船には開放されない連絡船専用埠頭である。 かくして大正13年着任の佐藤孝三郎市長の大函館港建設の提案が、一般商船に公開さるべき公共埠頭建設を目指したものであることは、明らかである。誠に妥当であり、きわめて自然であったと評すべきである。 |
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