通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
2 函館工業の近代化への途
3 主要企業の動向

函館船渠(株)

北海道セメント(株)

北海道人造肥料(株)

北海道機械網(株)

函館水電(株)

北海道セメント(株)   P113−P116

  明治23年、資本金18万円で創立された北海道セメント会社(社長阿部興人)の工場は、「函館港ヲ距ル海上僅カニ四浬半ニ過ギザル対岸上磯村」(『函館商業会議所年報』)の海岸に立地し、背後には無尽蔵の原料(石灰石)の山があった。設備は日本で最初に導入されたドイツのホフマン式輪窯1基を主として、25年から製造を開始したが、製造技術上の困難が多く、漸く27年末頃に所期の製品が生産された。年産額は3万樽であった。その後、日清戦争後の好況を期待して、29年に資本金を36万円に増資して年産12万樽を目標に輪窯をさらに1基輸入し、30年に工場の増設が完成する。しかし戦後の不況で31年から業績は低迷する。この頃、最大の販売先は1万トン船渠を建造中の函館船渠会社であった。また34年から輪窯1基を入れて赤煉瓦の製造を2か年間行なつている。36年には12万樽を製造して創業以来の成績となったが、翌年から日露戦争で需要は激減する。しかし、日露戦争後の好況で、国内や韓国の鉄道事業の需要およびウラジオストクへの輸出があり、価格も上昇して、20%を上回る配当が40年まで続く。製造量も12万樽を上回った。すでに、39年には資本金を72万円に増資、年産40万樽を目標に回転窯2基をドイツより輸入し、工場機械設備の増強を計画したが、3か年にわたる難工事の末、新工場の稼働は漸く42年からであった。その後も新旧工場ともに故障が多く、加えて大沼湖の渇水による函館水電からの電力供給不足に苦しんだ。しかも41年末からは不況で価格は低落し、浅野、小野田セメントなどとの激しい販売競争で43年上期は損失となった。44年から大正2年まで20万樽を上回る製造量ではあったが、上述の製造面での不調と販売面での営業費の増大、社債および借入金増加に伴う支払利息の過大で、数パーセントの配当は実施するものの、経営は悪化して大正2年下期からは損失が続き、大正3年には役員総辞職を申し出る事態となった。阿部社長は函館での大株主説明会でその事情を、大正2年7月の行政整理発表による政府事業の縮少と民間財界の不況は直ちにセメント業界に大打撃を及ぼし、本道および東北地方の鉄道その他の事業に予約した5万樽はすべて破約となり、年末には在庫が12万樽で、300余名の職工を解雇し、工場の操業を一部中止した。この難局に当たるために手腕のある有力な人を後継者としてほしいと述べた(大正3年5月7日付「函毎」)。そして、興業銀行の社債46万5000円が償還不可能となり、大正4年には、繰越損失金が15万円となった。こうして、資本金を18万円に減少して浅野セメント鰍ニ合併する運びとなった。その内容は、浅野セメントの50円払込株式額面18万円を北海道セメントに渡すということであった。「合併ニ関スル顛末報告書」(大正4年、浅野セメント)によると、北海道セメントの取締役遠藤吉平が浅野、大川、安田の3重役を歴訪して合併を懇請しているが、浅野側も北海道側の代表株主としての近藤廉平、園田実徳と会見して合併の真意を確めている。前述の函館船渠の役員および関係者であった近藤廉平、安田善次郎、園田実徳、阿部興人、遠藤吉平が北海道セメントの経営にも参加していたわけで、明治期に函館で創立された主要企業がこれら数人の人物によっていたことがわかる。しかし、セメント会社は船渠と比較してみて、難局に処しての経営の刷新の機会をとらえることができなかった。無尽蔵の原料の山を近辺に擁する利点をもちながら、本州側セメント会社に道内市場を蚕食されるのを恐れるあまり、設備投資を急ぎすぎたといえよう。ちなみに、各社の道内市場のシェアは、北海道セメントおよび浅野セメントがそれぞれ40%、残りは小野田セメント他が20%であった。

浅野セメント(株)(『函館区写真帳』大正11年)
 当時、経済の中枢機能をもった函館区とセメント会社とのつながりをみると、冒頭の会議所の指摘による通り、製品の搬出も工場用炭の搬入も艀によって函館港と結ばれていたが、時化などのため再三の流失があった。大正2年に函館、上磯間の鉄道が開通したので、移出入貨物は海運から陸運に改まった。また函館との往復通信は頻繁に行われていたが、電報でも半日はかかったので、特設電話を逓信大臣に請願していたが、漸く明治41年に開通している。そしてまた、労働災害による重傷者は函館へ護送治療していたが、治療の時機を失するので、専門医を雇って医務室を完備したのは40年であった。
 労働事情については、職工の採用に困難はなかったものの、明治33年には、「例年三、四月頃、多数ノ職工漁場ニ逃走スルノ弊アルヲ以テ、昨年五月「職工作業奨励規程」ナルモノヲ設ケテ、一面予防ニ備ヘタルト一面逃走者補欠ノ為メ、陸羽方面ニ数十名ノ職工ヲ募集シ来リタルトヲ以テ、十月初旬稍定員ニ満チ」(明治33年度「第一三回営業報告書」)という状況が述べられている。この原因は次のような苦汗労働によるものであろう。「輪窯に於て最も辛い役目は焼塊窯出しであった。焼塊は冷却されたとはいへ、まだまだ窯の内部には真っ赤なものが残っている。これを底を鉄でつくった下駄を履いて窯の中に入り、金挺で起し、シャベルで外へ掻き出すのであるから、その苦しいこと全身が焼付くように熱い。水を飲むと身体を損ねるので、塩入りの重湯をつくり、常時飲ませる等の苦心もあった」。こうした工場労働に比べると、漁場での労働はなじみやすいものであったのであろう。女工の労働についても次の記述がある。「出来上った焼塊は…風化室に運ぶのであるが、この風化室に於ける作業がまた大変辛かった。…約三ヵ月間多数の女工が石膏をまぜながら、数回にわたり切り返し、風化させたものである。」(『浅野セメント沿革史』(附)輪窯の操作法)
 合併後、浅野セメントは同工場を北海道支店工場として、工場設備に大改造を施し、まず輪窯3基を廃棄して、原石焼成法から生成焼成法による浅野式製造法にきりかえた。生産能力は従来の最高年産約24万樽を、40〜50万樽へと増加を計画して、大正5年から6年にかけて順次完成した。しかも第1次世界大戦下の好況でセメントの需要は急増していたので、旧工場の改造のみでは間に合はず、6年には約500万円の予算で第2新工場の建設に着手している。(石田武彦「北海道セメント会社の成立と展開」『地域史研究はこだて』第13号を参照されたい。)

→表1−36 主要企業の経営の推移

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