通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第3章 転換期をむかえて

コラム55

さようなら青函連絡船
青函トンネル開業、消えた海峡の女王

コラム55

さようなら青函連絡船  青函トンネル開業、消えた海峡の女王   P875−P879


津軽海峡線の開通日
 昭和63(1988)年3月13日、函館駅は早朝から多くの人が集まり異様な熱気に包まれていた。この日青函トンネルが開業、同時に青函連絡船が定期航路の使命を終え国鉄青函連絡船80年の歴史に幕を降ろしたのである。国鉄の青函航路は明治41(1908)年に比羅夫丸、田村丸2隻の新鋭船が就航して以来、いつの時代も本州と北海道を結ぶメイン・ルート、海の鉄路として重要な役割を果たしてきた。
 第2次世界大戦中は、重要な軍需物資である北海道の石炭を本州へ輸送する大動脈となり、このため昭和20年7月14日、15日には米軍の空襲を受けた。連絡船12隻はほぼ全滅、乗員・乗客等425人の死者を出す連絡船史上初の大惨事となった(青函船舶鉄道管理局『青函連絡船史』)。
 戦後は復興にむけ輸送力増強を計るべく、空襲で壊滅的被害を受けた青函航路再建のため客貨船4隻、貨物船4隻の建造が占領軍より許可され、新造船の第1船となる洞爺丸が昭和22年秋に就航した(『先駆−函館駅八十年の歩み−』)。
 洞爺丸はそれまでの連絡船と違い「海峡の女王」の名にふさわしい豪華船で、昭和29年8月の天皇行幸時にはお召船にもなった。同年9月26日、台風15号の大時化(しけ)のなか、洞爺丸は七重浜沖で座礁、転覆した。犠牲者1100人余りと、イギリス船タイタニック号沈没につぐ世界海難史上2番目の大惨事である(北海道新聞社『写真集 さようなら青函連絡船』、コラム41参照)。船の安全性が問われ、青函トンネル建設に拍車をかけることとなった。
 昭和30年代、復興とともに連絡船旅客輸送人員は増加し高度経済成長期以降は貨物輸送とともに急激に増加していった(青函船舶鉄道管理局『航跡−青函連絡船七〇年のあゆみ』)。
 これに対応するため最新の造船技術を駆使した新造船津軽丸が昭和39年に就航、41年の十和田丸まで7隻の津軽丸型新鋭船が揃った。新しい「海峡の女王」の誕生である(同前)。
 年間旅客輸送人員は昭和48年度にピークを迎え、498万人に達した。戦時中までのピークとなった昭和18年の203万人の約2.5倍である。
 この年、当初500万人突破は確実視されていたが、届かなかったのは年度末に実施された国鉄ストライキの影響だという(昭和49年3月29日付け「道新」)。
 昭和48年以降は下降線をたどり、昭和60年代にはピーク時の半分以下という惨憺たるものであった(北海道旅客鉄道株式会社『青函連絡船』)。
 青函連絡船は鉄道連絡船として本州と北海道の列車に接続する重責を担ってきた(コラム56参照)。列車が函館、青森駅に近づく頃、車内では連絡船に乗り継ぐ乗客に乗船名簿が車掌から配られる。甲乙2枚の用紙に氏名や住所を書かされたが昭和49年8月から簡素化され1枚となった(昭和49年7月20日付け「道新」)。 
 列車がプラットホームに着くと、乗船名簿を手にした乗客が接続する連絡船が待つ桟橋へ向かいホームを走る。込みあう船内で少しでも良い席を確保するためである。深夜便はとくにごった返していた。座席とカーペット席があったが、横になり楽に船旅ができるカーペット席に人気があった。旅客は窓際、壁際から埋まり、スペースを確保するため荷物を脇に置きとにかく横になる。しかし後からくる旅客のため旅客掛に「はい、そこの人。荷物は棚に載せて、もう少しつめてください」と注意される。しぶしぶあけた少しのすき間に、大きなリュックをかついだカニ族がわりこんでくる。カーペットの1人の割り当てはタタミ4分の1ほどであった(昭和49年9月18日付け「朝日」)。
 旅客は今と違い多くの荷物を持ち旅をした。連絡船で良い席を確保するため荷物を赤いキャップに紺のニッカポッカーズの赤帽に託す人が多かった。駅構内手回り品運搬人「赤帽」は、比羅夫丸就航時から函館駅に置かれていた(前掲『航跡−青函連絡船七〇年のあゆみ』)。

「旅」の変化とともに「赤帽」の役割もかわっていった(『航跡−青函連絡船七〇年のあゆみ』より)
 函館駅の赤帽は、本州へ行いく客が多い長距離特急を狙い、列車のなかで荷物を受け取るため長万部駅や洞爺駅まで迎えにいく。そして荷物とともに連絡船で青森へ向かいホームで荷を客に渡す。昭和49年の運び賃は列車から船まで1個150円、列車から列車までは300円であった(昭和49年9月20日付け「朝日」)。かつては上流の婦人が自分で荷物を持つことはタシナミから外れるという時代もあり、また代議士、社長がチップをはずむなど収入が安サラリーマンの1.5倍という実入りのよい仕事だった(前掲『航跡−青函連絡船七〇年のあゆみ』)。
 その赤帽も連絡船利用客の減少とともに昭和53年6月1日をもって廃止された(『先駆−函館駅八十年の歩み−』)。飛行機の時代となり、また小さな車輪付きトランクが普及したためといわれた(昭和49年9月20日付け「朝日」)。荷物は宅配便でという時代の流れも影響しただろう。また宅配業者の進出ではチッキと呼ばれ親しまれてきた手小荷物輸送も消えていった。
 連絡船桟橋の一画には旅行者援護所があった。これは敗戦後に旅行者の相談、保護を目的に、鉄道弘済会が運営を開始したもので、多客期には1日平均30件もの取り扱いがあったという。しかしこの援護所も旅客の減少や旅の形態が変わり昭和61年に業務が中止された(前掲『青函連絡船』)。
 昭和63年3月13日、世紀の大事業といわれる青函トンネルが開通した。戦前の計画は戦争で中断されたが、昭和29年の洞爺丸事故後は本格的調査を開始、調査坑の着工を経て昭和46年には北海道、青森側から昭和53年中の完成に向け本坑の掘削が開始された(福島町『津軽海峡・青函トンネル工事の歩み』)。
 トンネル完成が近づくにつれ、連絡船廃止問題がクローズアップされてきた。函館では存続に向け市民運動も活発化、シンポジウムなどが開催された(和泉雄三「自分史・矢野市長と私の市民運動」『地域史研究はこだて』第31号)。
 しかし、国鉄が解体されJRに移行が決定、運航中の連絡船の耐用年数も限界に達したことから関係自治体など4者協議の結果、鉄道連絡船事業としての連絡船運航は昭和63年3月13日をもって終航することとなった。廃止が決まると、連絡船フィーバーが始まった。減り続けていた乗客も14年ぶりに上昇したという(前掲『青函連絡船』)。
 昭和63(1988)年3月13日17時、最後の連絡船羊蹄丸が函館を出航、ほぼ同時に青森でも下り最終連絡船八甲田丸が出航した。人びとの哀惜の思いが頂点に達したなか、青函連絡船80年の栄光の航跡が終焉を迎えた。(尾崎渉)

青函連絡船就航式の模様

最終船羊蹄丸の出港
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