通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム41 洞爺丸台風の悲劇 |
コラム41 洞爺丸台風の悲劇 タイタニック号に次ぐ海難事故 P804−P808
大正元(1912)年4月、北大西洋で氷山に激突して沈没したイギリスの豪華客船タイタニック号(死者1517名)に次ぐこの海難事故は、乗客・乗員あわせて1430名(洞爺丸は1155名)の尊い人命がうばわれ、生存者はわずか202名(同159名)、そして112名(同37名)の遺体は、今なお発見されていない(青函船舶鉄道管理局『航跡−青函連絡船七〇年のあゆみ』)。 北海道は、食糧、石炭の供給基地として重要な役割を担ってきたが、昭和20年7月、青函連絡船がアメリカ軍の空襲で壊滅的な打撃を受けたことにより、本州方面への物資の輸送も寸断されることになった。 同年8月15日、敗戦を迎えたときには、日本の輸送機能のすべてが一時停止したとさえいわれるが、国有鉄道の輸送力を確保することは、戦後日本が国が復興するための原動力となるものであり、青函連絡船の回復は、国家的要請となった。そのため昭和21年には、GHQも8隻の貨車航送船の造船を許可したのである。このなかの1隻が洞爺丸で、就航は昭和22年11月のことであった。 台風15号は、洞爺丸台風ともいわれるが、それは洞爺丸が、3898総トン、旅客定員932名、積載貨車18両の性能を有する豪華客船の第1船として建造されたことと、青森・函館間を4時間半で走航したという名実共に、津軽海峡の女王として君臨したシンボル船の海難事故であったからにほかならない。 カロリン諸島東部海上に発生した熱帯低気圧は北上を続け、悲劇を迎える9月26日には、時速110キロメートル、中心気圧960ヘクトパスカルという異常なまでの気象状況を呈していった。洞爺丸は、この日午後3時15分、1314名の旅客・乗員と12両の貨車を積載して出港準備を完了した。しかし天候の悪化に加え、停電による桟橋可動橋の巻き上げが不能となったため、近藤平市船長は、テケミ(出港見合わせ)をおこなったが、午後6時30分出港を決意し、同39分、函館桟橋を離れたのである(坂本幸四郎『青函連絡船』)。 だが台風は衰えるどころか、風速が30メートルをこえ、45メートルに達する突風に遭遇したため、運航を見合わせ、錨泊避難することにした。風浪はさらに増し、激しい船体動揺のなかで、車両航送用の船尾開口部から車両甲板に海水が浸入、機関室や汽罐室まで浸水して石炭庫の石炭が流失し焚火不能、蒸気圧を失って操船不能という最悪の事態を招くに至ったのである。午後10時12分、船長は「両舷機不能のため漂流中」と打電、さらに「SOS、洞爺丸函館港外青灯より二六七度八ケーブルの地点に座礁せり」と発信したのを最後に通信が途絶えた(同前)。 この台風の威力が並々ならぬものであったことは、市街地での被害からも明らかである。家屋の被害は全壊が180戸、半壊が203戸、小中学校の一部も屋根を飛ばされ臨時休校するところもあった。そのほか、農作物被害や連絡船以外の船舶の被害など、被害総額は9億円を突破した(昭和29年10月2日・5日付け「函新」)。 洞爺丸の横転沈没は、午後10時20分頃と推定されるが、貨物船の第十一青函丸は、それより早い午後8時頃、北見丸は午後10時20分頃、十勝丸は午後10時43分頃、日高丸は午後11時40分頃であったといわれる(前掲『青函連絡船』)。 遺体の収容は難行をきわめた。とくに貨物船関係の遺体引揚作業は顧みられず、事故後10日目にしてようやく着手された。「いくら職員だからといってあまりな仕打ちです」という遺族の悲痛な叫びが報道された(昭和29年10月6日付け「函新」)。
連絡船と生命を共にした遺体は、函館市火葬場だけでは間に合わず、沈没現場に近い上磯町七重浜に臨時の野天火葬場を設け、荼毘(だび)にふされた。 昭和30年8月25日に、七重浜に建立された遭難者慰霊碑の除幕式がおこなわれ、翌26日には元町の東本願寺で、洞爺丸ほか4隻の連絡船関係者の合同慰霊法要がおこなわれた。その模様を「胸をうつ遺族のすすり泣きの声は高まるばかり」と新聞は報道している(昭和30年8月27日付け「道新」)。 事故からほぼ1年後の昭和30年9月22日、函館地方海難審判庁では、立すいの余地なくつめかけた報道陣や遺族が傍聴するなか、裁決がおこなわれた。それは「船長の運航に関する職務上の過失に起因して発生したものであるが、本船の船体構造および連絡船の運航管理が適当でなかったこともその一因である」という内容で、当時の十河信二国鉄総裁に勧告が申し渡された(昭和30年9月23日付け「道新」)。 この悲惨な事故の教訓を得て、その後新造された連絡船の船尾開口部には、扉が設けられ、燃料も石炭から軽油を用いたディーゼルエンジンへとかわった。 一方、天候に左右されずに、安全で大量に、しかも迅速な輸送力をめざして計画された、本州と北海道を結ぶ海底トンネルの構想は、洞爺丸をはじめとする連絡船の海難事故を契機として、その建設計画が一気に浮上し、進められることになった(コラム55参照)。(桜井健治)
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