通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム44

函館空港の拡大と騒音公害
市民の苦情と行政の対応

コラム44

函館空港の拡大と騒音公害  市民の苦情と行政の対応   P819−P823


プロペラ機時代の空港

函館空港の整備計画(『函館圏総合開発計画書』より)
 函館空港は、昭和35(1960)年に完成し、翌年から営業を開始した。当初、滑走路は1200メートルであったが、42年に2000メートルへの延長工事が始まり、46年に完成をみた。これと同時に空港面積も従来の5倍の109万平方メートルに拡大され、基幹国内空港として10番目のジェット空港となった(函館空港ビルデング(株)創立二〇周年記念誌『未来への飛翔』)。
 ジェット機の就航を控えて問題となったのは、騒音公害に対する住民の苦情である。「いまでもプロペラ機の騒音でミンクの出産率が落ちているのに、ジェット機になったら経営がなりたたなくなる」と空港周辺のミンク飼育業者12戸が、函館市公害対策課にジェット機就航までに騒音公害の対策を立ててほしいと訴えた(昭和46年7月15日付け「読売」)。周辺の学校への影響についても市議会で問題となった(昭和46年7月17日付け「道新」)。高度経済成長期においては、このような騒音問題をはじめ、さまざまな公害が問題となった。それに対応するため、函館市に公害対策課が設けられたのは、昭和45年10月22日のことであった(同45年10月23日付け「道新」)。この課ができた理由は、当時、化学肥料を製造する工場から発生する亜硫酸ガスなどによって気管支炎になると、付近の住民が市立保健所に訴えたことに端を発している。このことが市議会でも問題化して、公害対策課の新設が求められたのである(同45年6月20日付け「毎日」)。
 市民からの騒音に対する苦情を受けて、市立保健所と市公害対策課は空港周辺1.5キロメートルの範囲で、ジェット機就航(11月16日)の前後2回騒音調査を実施した。公害対策課は、調査報告書のなかで(1)空港周辺の宅地造成の規制(2)周辺の学校については二重窓防音構造を進めるほか、移転も検討する必要がある(3)現在(昭和46年当時)、羽田と大阪空港にしか適用されない「航空機騒音による障害の防止に関する法律」を地方空港へも拡大し、国費で助成してくれるよう強力に働きかけるべきだ、などの具体策をあげている(昭和46年12月28日付け「朝日」)。しかし、函館市のレベルでできたことは、宇賀・銭亀小学校の統合移転とミンク業者に移転費の補助をするに止まり、周辺住民への対策は何も実施されていなかった。
 函館空港の滑走路が2000メートルに延長され、ジェット機が就航する以前、すでに次の2500メートルへの延長が話題がのぼっていた。それは、利用客が予想以上に伸びたためで、混雑の解消には300人乗りのエアバスが発着できる空港をめざすというものであった。これに関連して、昭和48年3月30日に滑走路の延長問題をめぐっての公聴会が開催された。その内容はこの時期の状況を象徴しており、「ジェット機大型化によるメリットや観光客の増加」といった観点からの賛成者の意見に対し、反対者は騒音公害に集中し、「ジェット機の進入口にあたるため、話もできない。騒音によって酪農も影響がでている」などの意見が大半を占めた(昭和48年3月31日付け「朝日」)。 
 結果的に滑走路の延長は、第2次空港整備5か年計画(昭和46から50年度)に組み入れられ、遺跡発掘調査などで計画が延びたものの、昭和53年12月に工事が完了し、翌年の4月からエアバス・トライスターが就航した(前掲『未来への飛翔』)。

滑走路は2000メートルに延長されジェット機が就航した
 空港の拡大整備を急ぐ理由は、地元経済界が函館の″玄関口消失″に対する危機感を持っていたからであった。函館の青函連絡船・東日本フェリー・全日空の総体利用者数が千歳の航空3社に昭和51年に逆転されていたのである(昭和53年1月日付け「朝日」)。
 このように飛行機の利用が増えた理由は、料金格差が無くなったことによる国鉄離れと、飛行機のジェット化により大量輸送が可能になったことにあった(昭和51年12月25日付け「道新」)。
 飛行機の需要が増せば増すほど、便数の増加や飛行機の大型化が求められる。しかしながら、騒音問題は何も解決されていなかった。ようやく、昭和48年末に環境庁から環境基準が示され、これに基づき運輸省が航空機騒音のひどい全国15か所を指定空港とし、騒音対策が実施されることになった(昭和54年2月17日付け「道新」)。函館空港は特定飛行場として指定され、昭和49年度から民家の移転や防音工事が始まるようになった(昭和49年1月10日付け「読売」)。
 これに対し、関係住民は「函館空港周辺住民会議」を発足させ、(1)今後、便数の増加や深夜便の新設などの現状より生活環境を悪化することには反対(2)国への土地売却は統一、一括して解決すること(3)移転補償基準を明確にする、との基本方針を決め、個々の話し合いには応じないことを申し合わせ、国との交渉に重要な役割を担うことになった(昭和50年1月11日付け「道新」)。
 運輸省は、このような状況を受けて第3次空港整備5か年計画(昭和51から55年度)での予算をこれまでの空港建設を重点にした計画から、騒音・環境対策費に3分の1を充てる″環境重視型″に方向転換している(昭和50年8月31日付け「朝日」)。函館市も周辺住民の意見を聞きながら、空港の騒音対策や住民移転跡地の利用など空港周辺の環境整備を実施するため、市長の私的諮問機関として「函館空港周辺対策協議会」を設置した(昭和53年3月10日付け「北タイ」)。
 さらに運輸省は、空港周辺の騒音が大きな社会問題となっているため、昭和54年度と58年度から航空機の「うるささ指数」の再度の見直しにより、対象区域の拡大と防音工事の格上げを実施している(昭和54年3月9日・同58年1月20日付け「道新」)。
 函館市は昭和59年7月にテクノポリス(技術集積都市)に地域指定されたが、その際、空港の果たす役割には大きなものがあった。それは空港の有効活用を媒介に、産業構造を変えようというものである。
 地域振興と公害との関係も大きく変ろうとしていた。(根本直樹)

平成6年には国際定期空路も開設された
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