通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム43

ばんだい号事故
捜索から遺体収容まで

 

*1 写真誤りに付差し替え

コラム43

ばんだい号事故  捜索から遺体収容まで   P814−P818


同型のYS11型機 *1

ばんだい号の遭難地点
 昭和46(1971)年7月3日、土曜日。この日函館地方は、朝から霧雨模様の天候が続き、上空は夕刻になっても厚い雲でおおわれていた。時計が午後7時30分をまわったころ、NHKをはじめとする報道各社が一斉にニュースを流しはじめた。「札幌発函館行きの東亜国内航空63便、YS11型機ばんだい号が函館上空で交信を絶ち、消息不明である。」という。
 午後5時30分、札幌の丘珠空港を出発し、函館に午後6時11分到着する予定のばんだい号は、寺田英世機長、ジャック・レイモンド・スペンス副操縦士(アメリカ人)、2人の女性客室乗務員と乗客64人(男性34人、女性30人)を乗せ、午後6時3分、函館空港管制室に「函館ビーコン上空、6000フィートで通過」と交信し、管制室からの「高度が下がったら連絡せよ」との指示に応答したのを最後に、通信が途絶えたのである。
 午後6時18分、函館空港事務所は、札幌管制部に捜索を依頼し、このことは羽田の東京空港事務所保安部にある捜索調整本部などにも伝えられた。この事故を直接現地取材した柳田邦男が、当時の模様を詳しくまとめた作品『続・マッハの恐怖』によると、航空機が消息を絶った場合、通常はプロペラ機なら30分(ジェット機は15分)過ぎても目的地に到着しなければ、飛行コース上の管制機関や空港に連絡して、通信による「第一段通信捜索」が開始されることになっているという。それでも不明の場合は、「拡大通信捜索」に移り、警察庁、防衛庁、海上保安庁にも捜索を依頼するシステムになっている。
 ばんだい号は、3時間半分の燃料を搭載していたが、交信が途絶えてから1時間が経過していた。またほかの空港にも着陸していないことから、遭難は確定的だと判断した海上保安庁と防衛庁は、午後7時40分、函館周辺に航空機と艦艇を出動させ、捜索救難にあたった。
   しかし、機体が発見されないまま、「湯川から亀田方面に低空で飛んでいた」「川汲峠で爆発音がした」「恵山沖で大量の油発見」「南茅部町泣面山中腹で機体らしきもの発見」といったさまざまな情報が飛び交った。函館市は、4日朝に市長を本部長とする「函館市航空事故対策本部」を設置し、市慰霊堂を仮収容所(結果的には遺体安置所となった)とし、さらに家族等の宿泊先の手配などもおこなうことを決めたが、機体が、無惨な姿で発見されたのは、4日夕方のことであり、消息を絶ってからほぼ1日が経過していた(「昭和四六年度ばんだい号遭難慰霊碑綴」、以下「遭難慰霊碑綴」)。
 「読売新聞」は発見の模様を「四日午後五時二十五分ごろ、函館空港北北西四十八キロの亀田郡七飯町の横津岳(一一六七メートル)の山頂付近で、陸上自衛隊ヘリコプターが原形をとどめないまでにバラバラに散乱した機体と乗客の遺体を発見した。連絡をうけて陸上自衛隊、道警本部機動隊員が現場にかけつけ、暗夜の中で遺体の収容を始めたが、暗夜で危険なため搬出作業をきょう(五日)に持ち越した。」と伝えている(昭和48年7月5日付け)。
 結局、乗客・乗員あわせて68人全員の死亡が確認されたのは、5日午後2時のことであったが、悲惨な現場へ情報収集のため出向いた函館市の職員によれば、「現場に至るまでの道は、急斜面のうえ、クマザサが密生しており、また現場は、遺体がちぎれ飛び、まともに目もあてられないようなあまりにも悲惨なあり様で、遺体収容にあたる自衛隊員や警察の機動隊員、報道関係者も声がなかった」という。その無惨な状況は新聞でも次のように伝えられている。
 「落雷の跡のようにシラカバの木が鋭く裂けていた。この裂け目に宙づりの遺体があった。三百メートル四方に散った機体の破片の中には尾翼、胴体の一部、左エンジンなど原形をとどめる部分もわずかにあったが、ほとんどはジュラルミンの細片と化していた。土の中から足だけが突出た遺体、首のない遺体もあった。いや、それでもましな方かもしれない。バラバラになって見分けのつかない手や足だけの遺体もあった。ミルク色の霧の中に沈む原生林の中で、東亜国内航空「ばんだい」号の現場検証と遺体収容作業は続けられ、午後三時半、全遺体を収容し下山した」(昭和46年7月6日付け「毎日」)。
 ようやく下山した遺体は、仮安置所となった七飯町の社会福祉センターと正覚寺に一旦安置されたあと、函館市慰霊堂(現在は青少年ホールとして使用)に移され、仮通夜と検死がおこなわれた。その後、函館市をはじめ、周辺各町村の火葬場で荼毘(だび)にふされたほか、遠くは札幌や京都へ、またスペンス副操縦士の遺体は、アメリカへと持ちかえられた(「遭難慰霊碑綴」)。

事故現場に設けられた仮祭壇

遺体安置場となった函館市慰霊堂
 ばんだい号事故は、墜落地点が正規の飛行ルートから17.6キロメートルも離れていたため、政府の事故調査委員会(委員長・守屋富次郎東大名誉教授)は、同型機を使い、目撃者を事故当日と同じ地点に立たせての実験などをおこなった。その結果、事故原因については、「本事故は、ばんだいの操縦者が函館NDB(無指向性無線標識)の北方約九キロの地点上空を同NDBと誤認し、かつ一回の旋回降下によってハイステーションを二千五百フィートで通過しようとしたため、その飛行経路が西方に広がり、この間、強い南西風によって同機が予想以上に北方に押し流されたことによるものと推定される。」として(昭和47年12月18日、事故調査委員会から運輸大臣に提出された「ばんだい事故調査報告書」より)、パイロットミスという結論が出され、これに納得しない委員の辞任もあるなど、波乱含みで不透明のまま終結した感がある。

ばんだい号遭難者慰霊碑
 ところで函館市は、ばんだい号が消息を絶った7月3日夜から、一連の業務が終わる7日までの5日間に、延842人の職員を動員し、情報収集から医師団の派遣、遺体の搬送や荼毘の支援にあたらせた。また、この業務に伴い延べ70台の車両を提供している(「遭難慰霊碑綴」)。昭和47年7月の遭難一周忌には、横津岳の頂上(988メートル)に、死者への冥福と鎮魂の祈りをこめて合掌する手を象徴した「ばんだい号遭難者慰霊碑」が建立され(同前)、今も墜落した7月3日には、遺族と関係者が参列しての慰霊祭がおこなわれている。
 また、ばんだい号の事故を契機に、ローカル空港の保安施設の貧困ぶりがクローズアップされることになったが、函館空港では、無線や照明をはじめとする諸施設の整備が一段と強化されてきたほか、平成11年3月からは、滑走路3000メートルが完成し、供用開始されるなど、年間利用客250万人を数える国内有数の幹線空港として成長した。(桜井健治)
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