通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム39

婚礼と葬儀の変化
結婚式の簡素化と葬儀の変遷

コラム39

婚礼と葬儀の変化  結婚式の簡素化と葬儀の変遷   P793−P798


五稜郭公園での青空集団見合い(昭和23年8月9日付け「道新」)
 経済的にも貧しくまた住宅難の戦後には、「所帯をもつ目安もない未亡人や男やもめたち」が多かった。そこで結婚難の一助にと、昭和23(1948)年に外地引揚者連盟が主催し、同胞援護会や函館市・NHKが後援して北海道最初の「青空集団見合」がおこなわれた。
 第1回目は8月8日に五稜郭公園で、女性5人に男性38人が、第2回目は16日に女性25人、男性60人が参加して新川小学校の屋上で開かれた。この見合いで婚約が成立すると市長が仲人を務め住宅を斡旋するという好条件であった(昭和23年7月21日・8月17日付け「道新」)。
 結婚費用は昭和25年当時で、新品の花嫁衣装だけでも万単位の高額になり、とうてい負担しきれないので多くの新婚組は「借り衣装」で間に合わせていた。「借り衣装」はデパートの結婚式場で「振り袖で二千円から五千円まで七段階があり、これに着付料が千円から千五百円かかるが新品と比べると格安である。洋装は三千五百円だが利用者は少ない。花婿のほうはモーニングが五百円から八百円、羽織・袴は三百円から五百円」で、また旧家のなかには花嫁衣装を格安で貸し出しているところもあった(昭和25年10月19日付け「道新」)。
 披露宴は安いといわれるデパートや共愛会館の食堂あたりで、「一人あたり三百円から四百円ぐらいでお酒はホンのおみき程度、料理もあっさりというのが多い、また最近目立って増えたのはお茶とお菓子にフルーツといったお手軽披露で、大体一人百五十円から二百円止まり」であった(同前)。
 結婚費用を少しでも安くできて、結婚式の簡素化がはかれるようにと、昭和21年5月に食堂を再開した共愛会館では、22年6月に神殿を造り、式から披露宴までおこなえるようにした。25年に完成した労働会館にも翌年11月に結婚式場が設けられた。両会館ともに、衣装を貸し、挙式部屋料を含め″一金三千円也で結婚式が挙げられます″とされたが(昭和26年11月4日付け「道新」)、このほかに記念写真をとり披露宴を開くと「三千円」はとうにこえてしまい相変わらず費用のかかる結婚式が多かった。

婚礼衣装と調度品の新聞広告(昭和28年10月14日付け「道新」)

労働会館の貸衣装
 戦後間もなくは花婿の年齢も30歳過ぎが 多かったが、昭和26年では男は27、8歳、女は20歳から23歳くらいが普通になった(昭和26年年12月7日付け「道新」)。
 戦前から結婚式は披露宴も含め自宅でおこなわれるのが一般的であったが、友人・知己などの招待客の増加にともない共愛・労働両会館やデパート、レストランの結婚式場が利用されるようになってきた。また会費制の披露宴(祝賀会)もおこなわれるようになり出席者も大幅に増えてきた。この会費制は30年代後半から広まっていったものと推測される。
 50年代末になると、市内では招待制の結婚式に代わって会費制が圧倒的に多くなる。
 「年間千九百組から二千組がホテルや結婚式場で挙式、披露宴をおこなっているが、そのうちの八・九割は会費制で、そのため披露宴でなく祝賀会とよばれることも多い……また会費の相場は八千円から八千五百円と札幌などより千円ほど高いが、これは発起人主導で祝賀会の諸経費をすべて会費で賄う傾向が強いから」だと新聞には書かれている(昭和60年5月12日付け「道新」)。
 葬儀は古くから近隣の人びとが協力して自分たちで執りおこなってきた地域の多いなかで、函館では戦前から葬儀業者が関与してきていた。 

市営葬儀の動向を伝える新聞記事(昭和22年11月28日付け「道新」)
 昭和23(1948)年に、苦しい市民生活に少しでも役立てればと市議会で市営葬儀が提案された。葬儀業者の反対が強かったが、23年10月1日に「葬儀のろう習を改善し経費の節約を図るため公益葬儀を行なう」ことを目的に函館市公益葬儀条例が公布された(『函館市公報』第30号)。
 しかしその後、市営葬儀は公益事業のため宣伝も値上げもままならず、やがて赤字になってしまい「戦後の混乱期にあって葬儀の簡素化をすすめ、業者に低料金を守ることを約束させた」として、昭和30年4月1日をもって市営葬儀を廃止した(昭和30年3月30日付け「道新」)。
 戦前・戦後を通して葬儀は自宅でおこなわれることが多かったが、昭和40年代になると各町会館など自宅以外でもおこなわれるようになってきた。それはこの頃になると会葬者が増えてきて自宅では手狭になってきたことや、町会館などの集会場ができてきたこと、また襖(ふすま)や障子を外し家のなかを整理したりする必要のない便利さなどによるものと考えられる。
 昭和57年には会館所有の町会は89、そのうち約50の町会館が葬儀の祭壇を常設していた(昭和57年7月30日付け「道新」)。
 現在函館では、遺体を納棺したあと荼毘(だび)に付し、遺骨を祭壇に安置してから通夜、告別式、忌中引きがおこなわれている。昭和57年7月30日付けの「北海道新聞」によると「市火葬場の話では、いまは九八%まで通夜の前に火葬にする」という。このように火葬を先に済ましてしまう葬儀のやり方は、どんな理由でいつ頃から始まったものかは諸説があって判然としない。
 前述の新聞には、戦前に伝染病が流行した時、参列者が忌み嫌うので火葬にした「伝染病説」、戦火が強くなると集会や人の移動が禁じられ、葬儀も火葬を優先し簡素化した「戦争説」、北洋に出漁した漁船員の家族が亡くなると、いったん火葬して帰りをまった「北洋説」、千数百人が亡くなった昭和29年の洞爺丸台風の時に、葬儀が間に合わず先に遺骨にした「洞爺丸事件説」、遺体の持ち込みが認められない「町会館説」などがあげられている。また、昭和9年の「函館大火説」もあり、戦前・戦中・戦後のいずれとも決めかねる。
 また納棺に使う棺は戦前から「ガンオケ」と呼ばれる座棺が多く使われていた。遺体は合掌してあぐらに組み女性は正座させて棺に納めた。身体の大きい人は棺に納めるのに難渋したという。しかし昭和30年代になって寝棺が広く用いられるようになるとその苦労もなくなった。
 火葬は梁川町にあった市営の火葬場「護法院」と「台町火葬場」(現函館市斎場)の2か所でおこなわれていたが、台町火葬場は地理的条件の悪さから護法院が多く使用されていた。台町火葬場では冬、霊柩車が雪の坂道を登りきれず管理人が橇をひいて旧検疫所付近まで出迎えることもあった。
 その護法院も大正8(1919)年の建築当時は人家もまばらであったが、昭和30年代になるとすっかり町中になってしまい排煙の臭いが問題になってきた。また長年の使用に加えて洞爺丸事件による酷使もあって施設の老朽化がはなはだしく、昭和38年3月31日をもって閉鎖された(昭和38年年4月1日付け「道新」)。
 代わって翌日から増改築を終えた台町火葬場が使用されることになった。同火葬場の火葬炉は寝棺と座棺兼用のものがひとつだけで、あとは寝棺用のものであった。これは昭和30年代後半にはほとんど寝棺が使用されることになったことによる。(青木誠治)

慰霊堂でおこなわれた坂本森一市長の市民葬(昭和22年9月28日付け「函新」)

梁川町にあった護法院
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