通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム37

冬の暖房事情
石炭ストーブから石油ストーブへ

コラム37

冬の暖房事情  石炭ストーブから石油ストーブへ   P783−P787

 1年のうちのほぼ半年は暖房なしで暮らせない北海道では、これまで薪、炭、石炭をはじめ灯油、電気、ガスなどを燃料とする、様々な種類の暖房器具を用いてきた。

ルンペンストーブ(函博蔵)
 安価な燃料でより暖かい暖房手段をと考えるとき、燃料と暖房器具の関わりは当然ながら表裏一体である。北海道の冬は薪ストーブと石炭ストーブが主体であったが、生活物資の乏しかった敗戦直後には、屋内、屋外を問わず、粉炭や廃材など燃やせる物は何でも使用できるブリキ製のルンペンストーブが登場した。
 また後でふれるように石炭が欠乏したため、それを補うために当時よく使われた燃料としては、製材の際に出るおがくずを固形化した北海道特有の「おが炭」があった。これは安価で火の付きがよかった。また、粉状の木炭を円筒状に練り固めた練炭は、火力、火持ちのよさで暖房はじめ料理などにも使用された。
 石炭は昭和24年8月16日に自由販売となるまでは配給であったが(昭和24年8月16日付け「道新」)、その配給は途絶えがちであった。したがって市民それぞれが自衛手段を講じなければならなかった。昭和21年1月25日付けの「北海道新聞」には、石炭の燃え殻から燃え残りを拾っている人の話と、船に積み込む際に海底にこぼれ落ちた石炭を、岸壁から長い手かぎのような竿ですくいあげている人の話が載っている。後者は1日で6俵から7俵にもなったという。
 また駅構内で汽車が通過したあとこぼれた石炭を拾い集める姿や、貯木場の原木から皮をはいで持っていく人の姿も報道された(昭和23年11月21日付け「道新」)。
 なお燃料ばかりではなく、鋼材なども不足していたためストーブや付属品のロストル、それに煙突も配給統制がかけられて、市民は不自由を強いられていた(ストーブも石炭と同じく、昭和24年に統制が解除された)。
 石炭の流通は、自由販売となってからもしばらく改善されなかった。「市の貯炭僅か五百トン/いまだ二千世帯炭箱空つぽ」という見出しの記事が、昭和26年11月17日付けの「函館新聞」に載っている。炭鉱労働者のストライキもあって、予定どおりの入荷がなされなかったため、市民は不安なまま冬を迎えざるを得なかったという内容である。不安は現実になり、この月末に寒波が到来すると、石炭会社には寒さにふるえる人が「いくらでもいいから」と石炭を買いに押し掛けたが、ストック皆無状態の会社は断るのにてんてこ舞いだったという(昭和26年12月1日付け「函新」)。また市内の高校では石炭不足のため、冬休みを長くするという異例の措置がとられた(同26年12月7日付け「函新」)。

冬が近づくと薪の用意が始まった(俵谷次男)

ストーブ展示会の模様
 このような不安定な石炭供給事情も、時が経つにつれて徐々に落ち着いていった。
 戦後、北海道に在勤する国家公務員には、冬期間に燃料費や除雪費など経費を必要とするので、その補填を目的としていわゆる寒冷地手当が支給されるようになった。それにならって地方公務員や民間企業でも支給が開始されたが、一時期は石炭が現物支給されたこともあった。
 石炭ストーブが主流を占めていたこの当時は、煙突から出る黒い煤(すす)が白い雪の上に積もって、街中が黒っぽかった。
 家々の壁には薪が積まれ、石炭置き場や石炭小屋が設けられていた。部屋にある石炭箱が空になるたびに、石炭置き場に取りに行かねばならなかった。

デレッキ(上)、や石炭箱、十能(下)は必需品だった(函博蔵)
 石炭ストーブには石炭をすくってくべるための「十能」や、燃え殻をふるい落としたりするのに使う「デレッキ」といった付属品があったが、ほとんど石炭ストーブが使われなくなった現在は死語となっている。
 石炭が燃えた後に大量に出る燃え殻の処理も面倒な仕事だった。農漁村部では、家の周りや空き地に捨てることができたが、都市部ではそうもいかなかった。各家庭ではストーブから出る石炭殻を、市が指定した灰捨場に捨てなければならなかった。そして、市は各灰捨場の灰燼(かいじん)を馬車やトラックで収集し処理したのである(表参照)。この灰捨場は、石油ストーブが家庭に普及する昭和40年代半ば頃までみられた。
函館市の灰燼処理状況
年次
処理世帯数
灰捨場数
使用車両台数
暖房灰燼処理量
(立方メートル)
トラック
馬車
昭和28
29
30
21,500
11,269
11,000
560
620
477
2
1
2
13
10
7
19,000
11,979
10,769
昭和29・30年『函館市勢要覧』より作成
 戦後復興の立て役者として、主役の座にあった石炭であったが、まもなくその座は石油に奪われることになった。昭和30年代後半から石油の輸入が飛躍的に伸びて、「エネルギー革命」が進行した(図参照)。
 家庭用の暖房も石油ストーブが主流となっていくのである。石油ストーブは石炭よりも熱効率がよく、取り扱いが便利であった。函館市内でも石炭ストーブは、次第に大衆の足下から遠ざかり、30年代後半から40年代にかけてその販売量は、年々10パーセントから15パーセントずつ落ち込んでいった(昭和48年11月11日付け「道新」)。
 昭和48年の第1次石油ショックの時に、一時店頭に石炭ストーブがみられたことがあったが、以降はすっかりその姿を消してしまった。(長谷部一弘)

市内あちこちに「灰捨場」があった

石油の配達風景
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