通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 復興から成長へ

コラム20

まちのシンボル・イカ点描
イカ珍味は全国ブランドへ

コラム20

まちのシンボル・イカ点描  イカ珍味は全国ブランドへ   P698−P702


志海苔漁港に水揚げされたイカ(昭和42年、俵谷次男撮影)

イカぶすま
 かつて函館駅に降りるとイカを干す臭いがしたと語った人がいたが、それは彼ばかりではなく、久しぶりに故郷に戻ってきたものが一様に体験したことではなかろうか。潮風に混じってにおってきた独特のあの臭い。戦前から函館の主要生産物であったイカ。
 戦前はスルメの原料として、戦後はスルメのほかにイカトックリやのしイカ、そして輪イカ、さきイカなど珍味加工製品の主力となっていく。函館の経済を支えるだけではなく、日常の生活にまで深く入り込んでいたイカ。それは朝の食卓のイカ刺しであったり、その家庭独自の製法によった塩辛であり、さらには子どもたちのおやつ、のしイカと多彩かつ身近な存在であった。そうした日常のかかわりが根底にあって「市の魚」としてイカが選ばれたことは何ら不思議なことではない。
 夏イカの季節になるとイカ売りの声が早朝から聞こえてきた。多くの家庭ではイカ刺しが朝の食卓に出された。それもどんぶりに山盛り状態、薬味は今はおろしショウガが多いが、その前はおろし大根が一般的であった。このイカ刺しをルーツとしたイカソーメンが観光客の評判を呼ぶようになったのは昭和40年代の後半であり、今ではすっかり函館を代表する「食」となっている。
 昭和30年代の前半、6月末になると、夏イカ漁が函館山の裏手や大森浜の沖合で本格化する。近年の機械化された漁とは異なり、この頃は定置網か磯舟による釣り漁であった(コラム19参照)。イカ漁と連動してスルメイカを干す季節に入る。市場に入荷したイカは加工業者に引き取られる。スルメ加工はおもに宇賀浦町周辺の大森浜に面した海岸でおこなわれた。
 イカ干し作業が浜で始められると、「イカぶすま」が立ち並び、乾燥する時に発する臭いが当たり一面に漂ったものである。当時の新聞は「そろそろなつかしい?スルメイカのニオイが立ちはじめた」と例年の風物詩として紹介している(昭和32年6月27日付け「道新」)。その「イカぶすま」も、臭い公害といったことや生活環境の大きな変化も手伝い、やがて、姿を消していった。
 「函館はイカの加工で食っている業者が多い」と評されたころ、新聞は「イカに生きる」という連載の囲み記事で加工業者に焦点をあてた(昭和35年9月17日付け「道新」)。それによれば函館を訪れる観光客はスルメ、塩辛、輪イカ、燻製とイカづくしの土産物にお目にかかるとある。昭和30年代に入るとイカ業界が斜陽といわれるなか、イカ関連の加工売り上げが10億円に突入して、ひとり気を吐いていた。しかも50軒ほどの零細業者がこうした産業を支えていたのである。
 ここで登場するのが木村千代治氏の工場。10数人の工員が働く中小企業で、輪切り用ラインマシンや乾燥機などが導入されて近代化が図られている。木村氏は輪イカとイカ燻製を函館特産品として全国に売り出した立て役者の1人であった。輪イカは昭和10年頃に朝鮮シラウオの代用品として登場したが、そのころの生産高はわずかであった。それが昭和27、28(1953)年とイカの大漁となり、スルメの加工業者が大漁貧乏のピンチにたたされたことから知恵を絞ったのである。
 イカは加工するとすぐに赤くなるが、その変色を防ぐ方法を見付け、製品化に成功したのである。ほかにもスルメで食えなくなった加工業者が珍味加工の極意を生み出した。
 昭和33年頃、大手水産会社が珍味加工の世界に参入しようとしたことがあった。大資本の脅威の前に既存業者が集まり協議したものの妙案は浮かばず、「いい品物」を作ることが大事という結論に落ち着いた。結局、製品への信用や業者の結束が実をむすび、参入を防ぐかたちとなった。
 イカ加工は、パートタイマーのさきがけともいえる女性労働力に依拠した手作業でおこなわれていた。イカ燻製を中心とした函館の珍味加工業界は、昭和30年代なかばでは年間20億円以上の生産額をあげ、ドル箱産業となり、成長を続けていた。このため人手不足ともなり機械化が進められていった。

イカ切断機(「道新旧蔵写真」)
 スルメをのすために手や足を使っていたが、衛生面での改良や能率を求めて昭和28年、鶴岡町(現大手町)の熊谷商店が新型イカのし機械を開発し、特許を取ったのが、機械化の発端であった(大島幸吉『イカ漁業とその振興策』)。ついで昭和33年には市内大手の帝国食品函館工場で自動式スルメ焼器、高速度スルメ細刻機などを導入した。また日本冷蔵(株)函館工場では35年にイカ切断機を導入している。これは八戸市で製作され、イカさきから水洗いまで一貫して自動化されたもので、人手の5、6倍の能力となる1時間あたり150キロの処理が可能であり、イカの開き冷凍生産に活用された(昭和33年8月23日、昭和35年8月6日付け「道新」)。
 またイカ燻製の原料には生イカの内臓と足を取った「つぼ抜きイカ」とよばれるものが使われていた。つぼ抜きは女性労働者がおこなっていたが、内臓の成分は刺激が強く手荒れして連続した作業は困難であった。このため音羽町(現大手町)にある機械会社の本間商会がイカつぼ抜き機を開発した。この機械は生イカをベルトに乗せると内臓をかきだす剣が飛び出す仕掛けとなっており内臓と足が分離されて出てくるという優れもので1分間に60杯から70杯を処理した。名付けてイカ・ピッチングマシンといった。人手不足に悩む加工業界には朗報となったようで引き合いがあいついだ(昭和37年6月7日付け「道新」)。このように機械化が進んだ背後には、戦前から培われてきた地場の機械製造業の技術力の高さがあった。
 イカ加工製品で、戦後の函館で観光商品として開発され一躍脚光をあびたユニークな存在であったイカトックリにも触れておこう。イカトックリの製造は戦前までさかのぼるが(昭和48年11月2日付け「毎日」)、そのときには人気を呼ばなかったようだ。昭和23年に函館市の農水産課がイカの函館名産品を企画し、イカトックリの試作に成功した。やがて昭和40年代に北海道観光ブームが訪れると爆発的に売れはじめた。函館の4軒の製造業者が、昭和47年には60万個、翌年には70万個を生産した。
 昭和48(1973)年の秋イカ漁は不漁が続いたが、製造業者は「利幅は少なくても函館の名物なんだから、とにかくつくらなくては」とフル操業を続けた(昭和48年11月2日付け「毎日」)。昭和50年代に入ると影は薄くなるものの、多くの人に語り継がれた、いかにも函館らしい産品のひとつといえよう。
 市民のなかに定着したイカ。かつて函館市ではイカポリス計画というものが検討されたこともあったし、賛否両論の市民論議が起こったものの1億円ふるさと創生事業を活用して、イカモニュメントが桟橋広場に建てられた。現在も函館はイカとは切っても切れない関係の街として歩み続けている。(菅原繁昭)

イカトックリ
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第7編目次 | 前へ | 次へ