通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム7

「闇市」の出現
白昼公然の「間」生活

コラム7

「闇市」の出現  白昼公然の「間」生活   P632−P636


大勢の人で賑わう松風町の「闇市」(昭和21年12月28日付け「道新」)
 敗戦後の松風町万歳館通り(現在の大門広小路)はいつの間にか闇市と化した(昭和20年11月1日付け「道新」)。この地区は昭和16年に、つぶ売りなどの屋台が集められ指定地とされていたが(「屋台店」『函館文化』第15号)、戦時下の休業状態が嘘のように露店や屋台が一体となって賑わいをみせていた。
 この闇市の様子を昭和20(1945)年12月9日付けの「北海道新聞」は「若き戦闘帽あり、戦災者らしき鳥打帽あり、一見それと知れる軍服の復員者もある」と伝え、翌21年1月5日付けの同新聞には、「″敗戦日本″をまざまざと見せつける悲しくも哀れな姿である。しかしここには″虚偽″はない、法の眼を逃れるべく仕掛けた″粉飾″も欺瞞もない、あるものは赤裸々な現実だけである」と訴える投書が寄せられていた。
昭和21年1月の主要食料品の闇価格
(価格は1kgあたり、醤油・酒は1lあたりに換算した)
品目
協定・公定
価格
闇値
内地米 上
36銭
33円33銭
内地米 下
34銭
精米
39銭
押麦
34銭
(麦)20円
澱粉  
1円24銭
21円33銭
甘藷
15銭
9円33銭
馬鈴薯
31銭
4円
大根
22銭
1円60銭
豚肉
9円38銭
40円
牛肉
9円38銭
26円66銭
味噌
42銭
5円33銭
砂糖
68銭
213円30銭
醤油
5円10銭
13円89銭
清酒(4月の1級酒の価格)
23円
(酒)83円33銭
焼酎(2月の価格)
10円50銭
昭和21年1月5日付け「道新」、昭和21年「道新」掲載「市役所回覧板」より作成
※激しいインフレで、公定・協定価格は前月比で2倍強、昨年同月比3倍強であった
 物資不足で配給が滞り、早出しの南瓜、青いトマト、デンプン粕、家畜用のデント・コーンなどが配給されるなか(コラム6参照)、米や野菜、新鮮な魚などの食料をはじめ、飴やチョコレート、りんご、さらにはお酒、ゴム長靴や衣服など、戦争中にはめったにみられなかった品物が闇市に出現していた。このため値段は、公定価格の数十倍から数百倍であったが(表参照)、1日2万人もの人でごった返し、品物は飛ぶように売れた(昭和21年1月1日付け「道新」)。昼食どきには「タコにイカ一本一円、安くておいしい、サアーサアーどうぞ」の呼び声にひかれ、14、5軒の屋台も人混みでいっばいになったという(同20年12月4日付け「道新」)。
 闇市の露天商といっても、以前からの露天商は案外少なく、大部分は失業者で、引揚者や旧植民地の朝鮮人も多かった。松風町の露店では、日本人は3割程度であったという。扱われている商品は、野菜などは近郊農家から直接持参する者が2割ほどいたが、ほかの品はカツギ屋やガンガン部隊(コラム8参照)が苦労をして持ち運んだものであった(昭和20年12月13日、同21年4月26日付け「道新」)。
 その後、昭和21年には、松風町のほかに十字街銀座通り、大黒町、五稜郭の3か所に函館露天商組合公認の市場が開設されたほか(昭和21年4月26日・12月28日付け「道新」)、戦前から親しまれてきた中島町、青森から持ち込まれた米が売られた函館駅付近など、市中には続々と市場が登場した。同年1月23日付けの「北海道新聞」によると、露天商組合に加入せずに、無許可で路上や店舗を構えて営業しているものは市内だけでも500人以上に達していたという。
 これらの露天や市場では、悪徳ブローカーによる買い占めや盗品、横流し品、統制され自由に販売することの禁じられていた品物も横行し、市内をふれ歩く漁師のおかみさんまでが松風町の相場を参考にするなど市民生活に大きな影響を与える存在となっていた(昭和21年4月26日付け「道新」)。
 闇市に象徴される世相は、子どもの遊びにも反映し、かつての兵隊ごっこなどから闇ごっこや強盗ごっこ、「進駐軍」ごっこまで登場していた(昭和21年3月15日付け「道新」)。
 しかし、「闇」行為がおこなわれていたのは、闇市だけではなかった。不足する生活物資をめぐって、市が農漁村に対し報奨金や奨励物資を出すなど堂々と闇行為をおこない、配給所自体の不正、世帯数をごまかして配給を受ける「幽霊世帯」が最小限にみても市内に3000世帯はあると報道されるなど、あらゆるところで「闇」行為がおこなわれていた(昭和21年8月31日付け「道新」)。鹿部と大沼の中間あたりの山中には「ドブロク部落」まで出現し、海峡を渡る闇酒とともに、盛んに函館市内に供給されていたという(同30年8月16日付け「道新」)。
 このような「闇」の盛行は、敗戦前からの社会秩序の揺らぎを示していた。函館の闇値の高さは道内有数で(昭和20年12月13日付け「道新」)、高騰する「闇」物価が生活を脅かすと非難される一方で、お金さえあればものが手に入るとして積極的に評価する声も少なくなかった。これらの行為は、確かに配給制に対する「闇」ではあったが、「国鉄に勤務する父が、どこからともなく入手してきた制服などの衣類を持って魚や馬鈴薯と交換に行った」(当時国民学校高等科生徒談)、との声もあるように、親戚や近所の人、知人などから手に入れた物資を元手に、物々交換することで生活を支えていたというのが現実であった。
 このような側面も持つ闇市であったが、社会秩序という面からの世論の圧力とGHQの指示によって、函館警察署も取締りを強化しはじめた。昭和21年1月には、取締りがもとで朝鮮人露天商と警察官との大乱闘事件も発生している(第6編第1章第1節参照)。この事件などをきっかっけとして、露天商組合も積極的に「闇」から「自由市場」へと転換をはかることになった。「大乱闘事件」の6か月後となる21年8月1日付けの「北海道新聞」は、″自由市場あれこれ対談″と称した座談会を掲載した。
 「鮮度といい品質といい配給以上のものを売り配給のように気にいらなければこの次から買えなくなる心配のない自由市場はたしかに主婦にとって便利ですが切りつめられた生活をする者の願いとしてもう少しやすくならないものでしょうか」との主婦の声に対し、露天商組合長は「すべての物の枠をはずしてしまわなければ価格は下りません、枠をはずすと品物は出廻り消費者も必要外のものを求める必要もなく自然暮しよくなりますがね、今のままじゃ駄目です、しかし私としては出来るだけ安い値段でと思って努力しております」と回答し、衛生面でも努力する旨を述べている。また、同組合長は女、子供でも純益が1日平均100円ほどであり、戦災者や引揚者などの出店を支援するとともに、「こんな状態も長く続かないでしょう、先刻申しました枠をはずす時期が参りますと売れない日が必ず来ます、ですから若い人で真面目な職をやめていわゆる闇商人化しているのは困りますよ」と述べている。
 この座談会の発言にもあるように、物が出まわるとともに価格も下がり、消費者の意識も変化し、次第に品質や鮮度を求めるようになった。集団闇商も徐々に統制された自治組織へと改組され、青空市場から集団で店を構えるマーケット形態が登場する。昭和21年10月の時点で、松風町のトーアマーケット、大門マーケット、蓬莱町の銀座小売市場の3つのマーケットが開設し、続いて引揚者が中心となって駅前、鶴岡、大町などのマーケットも設けられ、就職難のなかの貴重な働く場所ともなった(昭和26年9月2日、同30年2月10日・24日・25日付け「函新」、同22年5月25日付け「道新」)。生鮮食料品や雑貨が並び、品質や品ぞろえ、サービスの良さといった自由市場とは別の観点から、大量の顧客を吸収していたという(同21年10月21日付け「道新」)。
 しかし、昭和24年にいもと澱粉、26年に雑穀、27年に麦などの統制が撤廃され、卸売市場や問屋、商店などが活気を取り戻すと、雑多な品物を扱っていたマーケットは、魚菜市場へと変貌していった(昭和25年11月11日付け「道新」、同29年11月3日付け「函新」)。(奥野進)

鶴岡市場(「道新旧蔵写真」)

新川町の「自由市場」(昭和30年代中頃)
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