通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム6

食糧難下の都市生活
この草は食べられます

コラム6

食糧難下の都市生活  この草は食べられます   P627−P631

 戦争という非常事態が解除されたあとでも、人びとには生活がある。敗戦で領土は縮小され、復員者・引揚者により人口は増加したので、食糧は絶対量が不足する状況に陥った。しかも、戦争で働き手を失った農家の作付け面積は減少し、肥料も不足していたうえに、昭和20(1945)年は冷害により農作物の作柄が悪かった。北海道の米の収穫高は、約15トンで昭和18年、19年のわずか3分の1、渡島地方の収穫高も平年作の41パーセントほどであった(『新北海道史』第6巻通説5)。生産地から物資を輸送しようにも、車両や燃料も不足していたので、偏在を解消することもできなかった。

配給所の行列(昭和22年1月1日付け「道新」)
 一度は、GHQの指示で廃止された食糧をはじめとする物資の国家による統制も、著しい物不足と物価の高騰によって復活を余儀なくされた。戦争が終わっても人びとは配給所に延々と列を作って並び、割当分を公定価格で買うという生活を強いられたのである。しかも配給制も戦時中とは違って、満足に機能し得なかった。戦争中から農産物の供出に努めてきた農家にとっては、農機具や肥料などが不足するなか、肥料や鍬などを高い闇値で買って、農産物を安い「丸公(公定価格)」や「丸協(協定価格)」で売る矛盾、品物もなく貨幣価値が激減するなかで、物々交換でしか物資が手に入らないという現実もあったので、彼らを「闇」へと走らせる条件は十分に揃っていた。闇市が「自然に」発生し、そこではお金さえ出せば、戦争中にはめったにみられなかったものまで買えるという状況は、このような心理の現れでもあったといえよう(コラム7参照)。
 農漁村の生活者にとっては、「文化生活」の名のもとにこれまで衣料や食糧配給などの恩恵を受けてきた都市に対する反発もあった。この頃の新聞の投書欄でも、食糧事情の悪化や、官吏の無能さを批判するもののほかに「世は廻り持ちだ」、「過去のお前達が我々土百姓、漁師に対して、いつ何の博愛主義、人道主義を示したことがある」との声も多かった(昭和20年11月11日付け「道新」)。
昭和20年の主食配給状況
品目 配給日数
2月
うるち米
21日分
餅米
3日分
雑穀
4日分
10月
うるち米又はもち米
12日分
昆布加工品
1日分
とうもろこし又はとうもろこし粉、雑穀、澱粉米
2日分
精粟
1日分
馬鈴薯
9日分
脱脂大豆
2日分
小麦粉
1日分
『戦中・戦後の生活記録』、昭和20年2月、10月「道新」掲載市役所回覧板より作成
 こうした事情もあって配給状況は悪化し、全国各地で食糧の遅配・欠配が続いて事態はなかなか好転しなかった。昭和20年10月の函館での「主食」配給状況は「北海道新聞」の「市役所回覧板」の覧から算出すると表のとおりで、わずか8か月前の2月と比較してもその差は歴然としていた。同新聞によるとそのほかにも、馬肉や鯨肉、冷凍米、輸入缶詰などが配給されていたようである。さまざまなものを混食し、なんとか凌いできた主食配給であったが、同年12月26日からは配給がストップした(同20年12月28日付け「道新」)。その後、未配給となった主食は穴埋めされることなく、昭和22年10月20日の時点で遅配日数は、77.5日にも達していた(同22年10月二19日付け「道新」)。最終的な欠配日数は、昭和21年の米穀年度(11月から翌年の10月まで)で55日、翌22年の米穀年度でも53.5日を記録している(『函館市公報』第62号)。
 戦争が激しくなるにつれて、馬鈴薯や脱脂大豆、昆布までもが「主食」にかわる代用食として配給されていたが、戦後も同様で、それでも不足する分を補おうとさまざまな試みもなされた。「粉食の手引き」の作成(昭和20年8月18日付け「道新」)、フキやヨモギなどの山菜野草採取の奨励、市庁舎での食用野草と有毒植物の陳列などである(同21年5月22日付け「道新」)。山菜や野草の採取には、国民学校の生徒も動員され(同20年9月13日付け「道新」)、臨時列車まで運行されていた(同21年6月6日付け「道新」)。採取された山菜や野草、海草は粉末化され、家庭で団子やパンのなかに混ぜて食糧とされたほか、戦後一時期に多く食べられた海宝麺などにも利用された。この海宝麺は海草と少量の澱粉でつくられた代用食で、昭和21年には、市内でも11社におよぶ工場で生産されていたという(加藤昌市編著『函館蕎麦史』)。

野草の食べ方を伝える記事(昭和21年4月30日付け「道新」)
 このような状況のもとでもっとも大きな影響を受けたのは、食糧生産の手段を持たない都市の生活者であった。昭和20年10月の配給結果から割り出された数字によると、配給だけで函館市民が得られるカロリーは1100カロリー(現在の単位はキロカロリー)にしかならなかった(昭和20年10月23日付け「道新」)。影響は空腹だけにとどまらず、市立函館病院の外来患者の2割までもが栄養不足で抵抗力が弱まって病気に躍った人であったという。同病院長も市民全般がなかば栄養失調症になっているのではないかと推察していた(同21年1月19日付け「道新」)。
 配給がないから買出しにいき、買出しにいくから農村からの供出が減って配給がなくなるという悪循環ではあったが、自衛のために食糧を闇で手に入れなければ生活が成り立たなかった(コラム7参照)。
 敗戦後間もない頃の野菜買出し人は1日平均1000人ほどで、鉄道の切符売り場には切符を求める客が長蛇の列を作っていた(昭和20年9月28日付け「道新」)。函館駅で発売した戦後3か月間の往復切符は、3分の2が北見、十勝、帯広方面、3分の1は青森、秋田、新潟の米産地で、人びとは警察の目を恐れながらも近郊農村はもちろん遠くの生産地までリュックサックを背負い買出しへと向かった(同20年11月12日付け「道新」)。戦時中は多くの学生が農村へ援農に動員されたが、敗戦後援農先の農家を頼って十勝方面にいったなど、縁故を頼っていく者も多かったという(当時函館市立中学校生徒談)。
 「何を好んで闇買ひし、時間と金をかけ、当局の眼を恐れ恐れて買出したいバカゐようか」との意見が、多くの人の気持ちであった(昭和20年9月28日付け「道新」)。このような思いは、昭和21年6月1日の食糧メーデーや食糧対策市民大会(同21年1月17日付け「道新」)、翌年の函館市食糧危機突破市民大会(同22年3月11日・7月11日付け「道新」)などの具体的な行動となって現れ、「殺す気か」「机上の論より米だ」「米のS・0・S」などのプラカードのもとに食糧を求める市民が集まった(第6編第1章第4節参照)。
 買出しばかりではない。人びとは疎開家屋跡や空き地、庭、公園、グリーンベルト、さらには五稜郭跡の土手までも菜園として利用した(五稜郭跡付近住民談)。カボチャやジャガイモなどを栽培し、新川(亀田川)の堤防上には無断耕作者が増え、土積みを崩す者もいて、堤防崩壊の危険さえあった(昭和22年5月25日付け「道新」)。
 敗戦直後の衣・食・住の事情を回顧した市商工課長常盤信雄の談話は、食糧事情の窮状を伝えている。
 「やむを得ず二年も経過したと思われる海草(昆布)、石炭色した黒いもち等の配給、凍結した馬鈴薯の如きは、上物の方であったのですが、どうにか年を越すことができた……二十一年も……春先には近郊のヨモギ草の芽がのびるいとまのない位の惨状を呈し馬鈴薯の早掘、南瓜までも主食に加え……採収した野草を入れ一日分の米を三日位に食べ延し、米粒を探すのに容易でないありさまで、米は全く薬同様であったのです。」(『函館市公報』第62号)。
 その後、食糧事情は次第に好転しはじめ、配給される品目によっては、配給を辞退するものも現れた(昭和24年5月13日付け「道新」)。しかし、同じ年に公表された「十年後の理想の食生活の献立」(『函館市公報』第43号、下の献立参照)には、「まるで夢みたいなものだが早くそんなときがくればよい」というコメントが付けられていた。(奥野進)

空き地を耕す人びと(昭和21年4月16日付け「道新」)

『函館市公報』第43号より
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