通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム2

DDT撒布
みんな白くなった

コラム2

DDT撒布  みんな白くなった   P607−P611

 昭和20(1945)年10月4日、函館市民は連合国アメリカ軍の占領進駐を迎えた。アメリカ軍が進駐にあたって、もっとも恐れたことのひとつは、伝染病の蔓延だった。その防疫対策として、アメリカ軍は、駅・桟橋・学校・職場・浴場・興業場など、人の集まる場所で直接あるいは市衛生課を指示してDDTを強制撒布した。
 「体育館でDDTを頭から吹きつけられた。顔にも白い粉がかかり、パンパンになってしまったようで気分がわるい……母さんが土間のかまどに大鍋をかけ、みんなの下着を煮ている。ぬい目に生みつけられるシラミの子をやっつける、必殺釜ゆで作戦だ」(島田しょうきち『海岸通りブギ』)。
 人びとは頭に、襟元・袖口・裾などから注粉器や散粉器で白い粉を浴びせられた。当時、巴国民学校の生徒だった島田の回想にあるような、DDTの撒布と下着の釜ゆでは、戦後しばらくの間市民が経験したことで、占領軍への屈辱感と戦後すぐの衛生事情を記憶する象徴的な光景だった。
 この頃の函館は、上下水道や屎尿・塵芥処理施設などは不十分で、医療設備や医薬品も底をつき、衛生状態は極度に悪化していた。加えて主食糧の配給・確保も困難をきわめ(コラム6参照)、人びとの体力も低下していた。伝染病がいつ大流行してもおかしくなかった。そのうえ、復員軍人や民間人の帰還・引揚げが本格化して、海外からも病原菌が侵入し、ネズミ、ノミ、シラミ、ハエ、カなどの病原菌を媒介する動物の繁殖もあって、伝染病が蔓延していく恐れは十分にあった。
 このようななかにアメリカ軍が進駐を続ければ、兵士の伝染病感染は避けられないだけでなく、軍事力と威信の低下につながりかねない問題でもあった。アメリカ軍は、対日戦争中からその点を予測し、大規模な衛生班を編成して日本の占領を開始し、防疫対策として殺虫剤の撒布をおこなった。その殺虫剤がDDTだった(C・F・サムス『DDT革命』)。
 DDTは第2次世界大戦の落とし子で、化学戦の研究をすすめているうちに、殺虫力のある化学薬品が開発された。そのひとつがDDTだった。強力な殺虫性と人体への急性毒性が低いとされて、ヨーロッパの戦線でも連合国軍の防疫に多用されていた。
 アメリカ軍は、進駐当初の10月に青函連絡船桟橋待合室のDDT撒布を開始した(『先駆−函館駅八〇年の歩み−」)。乗船者は頭からズボンの中まで真っ白になり、手に消毒済みの青いハンをペタペタと押され、まるで牛、馬なみだった、という(毎日新聞社『私たちの証言 北海道終戦史』)。
 占領当初から発生していた伝染病、とくに発疹チフスは、昭和21年に入っても下火とならず、2月になって市内の罹災者は36名に及んだ。しかも、学校へのDDT撒布がおこなわれた矢先に、行路病者の収容施設から一挙に14名の患者が発生し、事態は深刻だった(昭和21年2月7日22日付け「道新」、「昭和二十年度若松国民学校日誌」、「昭和二十年度青柳国民学校日誌」)。GHQがDDTの全国的な撒布計画を3月に樹立するのは、似たような事情が全国各地に生じていたからであった。
 3月に入って、市衛生課は、「進駐軍の援助」で患者と家族、銭湯の浴客、刑務所・留置所にDDT撒布を開始し、身体はもとより建物も便所・押入・畳下、さらに床下までDDTを撒布した。市民に虱(しらみ)退治を呼びかけ(囲み資料参照)、全市一斉の「検病戸口調査」を実施して、発疹チフス・天然痘の蔓延に立ち向かっていった(昭和21年3月10日・16日付け「道新」)。

消毒済みのスタンプ(函図蔵)

発疹チフスの蔓延を報道する記事(昭和21年3月16日付け「道新」)
資料
虱を完全に殺減すること
1被服、寝具、身体の保清に努めること
2虱を探し出し火で焼き殺すこと
3虱のついた着物を二日乃至三日寒い所にさらしておくこと
4熱湯で消毒すること
5虱の卵を焼ゴテ焼火箸で焼き殺すこと
昭和21年3月10日付け「道新」より

 占領軍の再度の申し入れによる種痘の実施もあって、天然痘の発症は漸次下火に向かうが、6月から、学校・官庁・会社・工場もふくめた「全市一人残らず」布団にいたるまでのDDT消毒が、占領軍の指示で町会ごとに実施された(昭和21年『函館市事務報告書』、昭和21年4月21日・6月5日・8日付け「道新」)。
 DDTの粉末で頭髪は白くなり、肌着にも付着して不快だった。それだけに、「人畜に無害」「衣類などに付着しても何ら生地をいためない」、と消毒効果を維持するため、洗髪や衣類の着替えを控えることを強調されても、DDTの粉末を洗い落とす人が多かった(昭和21年4月17日付け「道新」)。また学校では、体育館・教室など締め切った部屋に生徒を集めてDDTが撒布されたので、室内は白い粉末が煙のように充満して息苦しかったという(当時柏野国民学校初等科6年生談)。
 さらにGHQは、函館市の上空からDDT溶液の空中撒布をおこなう徹底ぶりだった(昭和21年7月24日付け「道新」)。
 この時期のDDT撒布量は液体・粉末ともにそうとうな量であったという。この年1月31日から発疹チフス患者の多発に対応して実施した、浴場のDDT撒布に使用した粉末量だけでも、撒布終了の6月5日までに7141.5ポンド(約2665キログラム)に達していた(前掲『函館市事務報告書』)。
 加えて、どぶ凌い、便所消毒、塵芥処理、ノミ・シラミ・ハエ・カ・ネズミの駆除などが強調され、「公衆衛生列車展覧会・衛生講話会」の実施などによって、衛生思想の普及がはかられた(昭和23年8月18日付け「道新」・「函新」)。
 伝染病の発生も減少し(下図参照)、市民も「害虫」を駆除する衛生観念を身につけていった。
 その後DDTは、同じ有機塩素剤BHCとともに、農薬としても大量に用いられ、農業生産物の爆発的な増大につながった。しかし、昭和37(1962)年に残留毒性がアメリカで告発され(R・カーソン『沈黙の春』)、日本でも昭和46年に、国内での製造・使用が禁止された。
 敗戦後DDTの洗礼をうけて、「みんな白くなって」公衆衛生事情を飛躍的に改善させた。
 が、多くの内分泌攪乱化学物質(環境ホルモン)による現在の環境汚染、それはDDTから始まった、という(D・キャドバリー『メス化する自然』)。(桜庭宏)
法定伝染病発症者と死亡者数(病別)
                                                単位:人
病名\年次
昭和18年
昭和19年
昭和20年
昭和21年
昭和22年
発症者
死亡者
発症者
死亡者
発症者
死亡者
発症者
死亡者
発症者
死亡者
腸チフス
パラチフス
ジフテリア
赤痢
流行性脳炎
猩紅熱
発疹チフス
痘瘡
275
12
130
3
5
17
103
0
33
1
10
0
1
0
17
0
434
18
253
269
12
17
153
0
50
2
37
44
4
0
34
0
550
17
272
56
68
6
93
16
68
0
23
12
29
0
16
1
211
16
169
30
14
13
224
221
36
0
17
4
1
4
36
33
48
3
78
17
19
8
0
0
6
0
7
1
5
0
0
0
『函館市公報』第19号、第41号により作成

家庭でのDDT消毒作業(昭和21年6月8日付け「道新」)
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