通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第3節 敗戦後の函館の産業経済
2 北洋漁業の再開と函館

北洋漁業再開に至るまでの経緯

独航船の配分をめぐって

初年度の出漁と操業成績

函館公海漁業株式会社の設立

本格操業の開始

函館公海漁業の初出漁

基地函館の変貌

函館公海漁業株式会社の設立   P183−P184

 すでに述べたとおり、初年度に「函館公海漁業組合」として函館が一丸となって船団を出そうという計画は頓挫したが、その構想は翌28年の出漁に向けて再び動き出した。
 会社設立については、昭和27年8月4日第1回会合を開き、全会一致で漁業会社を設立することが決まった。西出、原、小川のほか、市議会議員をはじめ旧北洋漁業者50名、および各界代表合わせて80名が出席しており、文字どおり市の政、官、財界の要人を網羅した集まりであった。
 会合の席上、宗藤市長は「函館を今後永久に北洋漁業の基地として確立する一方、市をバックとして一船団を編成して明年から出漁し、市民の利益に直結し合わせて市勢振興を図りたい」と挨拶し、漁業会社の設立に全面的に支援する方針を明らかにした(『函館公海漁業二〇年史』、以下の記述も断りのない限り同書による)。
 続く第2回会合では、函館独自の母船会社経営の可能性を危惧する意見も出たが(昭和27年8月10日付け「道新」)、9月11日函館市役所で設立準備会が開かれた。準備会では、会社設立趣意書が承認され、北洋関係者のほか、市議、経済界その他各界の要人27名の発起人が決まり、22日の第1回設立発起人会で、社名を「函館公海漁業株式会社」と決定し、定款、事業計画案などを決め、本格的な会社設立の準備作業に入った。
 この年の末、会社は設立過程にあったが、東邦水産所有の千山丸(1151トン)を母船として、翌28年の許可申請をおこなった。しかし28年も試験操業となり、母船は前年同様、日魯、日水、大洋の三社で函館公海漁業の申請は実らなかった。この許可申請の過程で、函館市は12月17日の臨時市議会で、市の水産振興費から、「函館公海」に、貸付金の名目で200万円の融資をおこなうことを決めた。会社設立の過程で、資金的にまったくゆとりがなかった同社にとって、大きな支援になったことはいうまでもない。このことについて、宗藤市長は「何としても函館から母船を出したい」との決意を表明したものと述懐している。函館公海漁業の母船許可の申請には、会社関係者に止まらず、函館市も重大な関心を寄せていたのである。
 「函館公海漁業株式会社」(資本金1億円、払込資本金2500万円)は、28年1月15日、市内大町の事務所で創立総会が開かれ、正式に発足した。設立当初の役員は西出孫左衛門(代表取締役)、小川弥四郎、原忠雄、片桐由男、五十嵐長寿、川端午之助、加藤昇、中島英三、斉藤秀雄(以上取締役)、鳥海義映(監査役)となっている。

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