通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第3節 敗戦後の函館の産業経済
2 北洋漁業の再開と函館

北洋漁業再開に至るまでの経緯

独航船の配分をめぐって

初年度の出漁と操業成績

函館公海漁業株式会社の設立

本格操業の開始

函館公海漁業の初出漁

基地函館の変貌

基地函館の変貌   P188−P190

 北洋サケ・マス漁業が年々好成績を収め、収益性の高いことが明らかになり、29年、西カムチャツカ、オホーツク海域でおこなわれた試験操業では、ソ連側とのトラブルもなく、西カムチャツカ海域への出漁の可能性があり、アリューシャン海域でも余裕があるとみられることもあって、昭和30年の出漁をめざして、水産庁に提出された許可申請は、母船については14社から母船21隻、独航船は606隻、調査船が117隻という膨大な件数に達した。
 これらを受けて水産庁は、年末間際の12月30日、30年の母船式サケ・マス漁業の許可方針を発表した。これによると、アリューシャン海域に母船11隻、独航船284隻、新たにオホーツク海域に試験操業として母船2隻、独航船50隻が許可されることになった。この方針に基づき最終的に、9社、母船14隻、独航船334隻、調査船72隻という空前の大規模船団の出漁が決まったのである。このなかで前年度の函館公海漁業と極洋捕鯨の共同経営の分離が実現し、函館公海漁業は、母船朝光丸と付属独航船20隻の単独の船団をアリューシャン海域に送り出すことになった(前掲『さけ・ます独航船のあゆみ』、『函館公海漁業二〇年史』))。

函館山から出漁を見送る
 こうした船団規模の増大増加に伴い、函館港の収容能力の限界が意識されるようになり、母船出漁基地の分散が取り沙汰されるようになった。母船基地に指定されることは、資材の購入、冷蔵、倉庫、荷役、運輸、そのほか地元企業に多くのビジネス・チャンスを提供するとともに、地域の社会経済に多大の恩恵をもたらすことから、以前から基地を誘致しようとする運動は、小樽、釧路、稚内、紋別などの港湾都市で続けられてきた。
 各市の基地誘致運動に対して、函館市は手をこまねいていた訳ではなかった。30年1月、函館商工会議所は、北洋漁業基地獲得委員会の設置を決め、船舶の接岸スペース、艀荷役の処理能力、倉庫の収容力などを検討した結果、函館港が母船基地の港湾として十分な機能と収容力があることを確認。宗藤市長、加藤商工会議所副会頭、沢木函館港湾運送株式会社運副社長などを先頭に、農林省、母船会社、独航船組合連合会に対して陳情をおこなった(昭和30年1月29日付け「道新」)。各港湾都市の懸命の基地の誘致運動がおこなわれるなかで 極洋捕鯨の極星丸船団が釧路、北海道漁業公社の銀洋丸が稚内に決まったが、ほかの12船団は、函館市の予想どおり函館を基地として指定した(前掲『さけ・ます独航船のあゆみ』)。
 市内の海産業界では、これを契機に、戦前の「マル水」のような荷受け販売会社をつくり、北洋サケ・マスの一部を函館に陸揚げして、全国に売りさばこうとして母船会社に呼びかけた。だが母船会社の反応はきわめて鈍く、わずかに日魯漁業が製品の5パーセント、日水が1パーセント程度を陸揚げしようというもので、函館市が出資している北海道漁業公社や本社を函館に置く函館公海漁業さえもが函館にサケ・マスの荷を揚げることを考えていなかったようである。
 このような状況について、会社側は、缶詰商品などは輸出本位なので、直接横浜などの輸出港に揚げるほうが有利なこと、函館に陸揚げしても、本州に出荷する場合、青函航路の運賃が割高になること、販売戦略からみて、大量に消費される東京、横浜などの大都市に直接運んだ方が有利であるといった理由をあげていた(昭和30年9月2日付け「函新」)。 
 かくして北洋のサケ・マスは、函館を素通りして、そのまま東京などの大都市に送られてしまい、函館には、おもに独航船が持ち帰った乗組員の土産魚とベコ(隠し魚)が陸揚げされていた。この年の函館のベコの販売について次のような新聞記事がある。当時の函館における北洋サケ・マス市場の状況がうかがわれて興味深い。
 「ベコの函館陸揚げは、本年度は大漁しただけに期待されていたが、ことしは本州から悪質ヤシ連中の来函するものがあったりして警察の取締りもきびしく、ついに北洋始まっていらいの珍事ベコ売買双方の検挙事件が起きたりして話題をまいたが、こうした影響から函館に陸揚げされたベコも意外に僅少に終わった模様で、三十一日五船団の切揚げ、次いで一日の二船団の最後の切揚げで市内大商社筋に売買の成立したもの約十五万貫程度と昨年に比べれば約半数に終わっている。……ベコはほとんどサケに限られており、貫当たり安値四百二十円から中値四百四、五十円に最高で四百七十円にできたものもあったが、現在市中値段相場改良サケ六百円から六百十八円どころに比べると二百円方安値であるが、これはバラ値であるので箱代などを加算すると、たいして市中相場に影響はなく、昨年のようにベコが市中価格を大きく左右することもなく平穏無事に終わっている」(昭和30年9月5日付け「函新」)。  
 かつては北洋の出漁に必要な金、物、人など、一切を集めて北洋漁場に送り込み、北洋サケ・マスを一手に売りさばいて「北洋漁業の策源地」の名を馳せた函館の役割は、再開後の北洋漁業においては著しく縮小し、北洋出漁時の母船と独航船の「集結地」、あるいは出漁を見送るための「万歳基地」と呼ばれるようになったのである。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ