通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第1節 連合国軍の函館進駐
4 函館引揚援護局の設置と日本人の集団引揚げ

引揚者受入官庁の設置

函館引揚援護局の開設と諸施設

函館引揚援護局の組織

樺太・千島からの引揚げ状況

引揚者の概況とその内訳

朝鮮人の帰国業務

朝鮮人の帰国業務   P102−P103


援護局の作成した書類
 一方、函館援護局の任務には、こうした海外からの日本人引揚者の受け入れに止まらず、北海道から朝鮮人労働者などを帰国・帰還させるという業務もあった。戦後の混乱期、とくに20年末まで、この朝鮮人労働者の帰国問題に関する主導権を握っていたのは先にふれたように朝鮮人団体であった。しかし、昭和21年に入って、GHQの指導のもとに次第に日本政府が前面に出るようになった。そして、もっとも多数を占める朝鮮人労働者について、函館から朝鮮・釜山までの直接輸送が計画されたのは昭和21年4月である。これより先北海道庁は、同21年3月15日付けで「朝鮮人、中華民国人、本島人(台湾人)及本籍ヲ北緯三十度以南(ロノ島ヲ含ム)ノ鹿児島県又ハ沖縄県ニ有スル者ノ一斉登録実施ニ就テ」と題する「緊急公告」を3月19日付けの「北海道新聞」に掲載した。これは、同年3月18日午前零時現在、北海道内に現住するこれらの人びとの氏名・年齢・男女別・原籍地・住所・帰還希望の有無・帰還目的地などを調査することを告げたもので、GHQの日本政府に対する指令に基づいていた。これらの人びとの速やかな帰国や帰還を実施するための予備的作業という意味があった。この「一斉登録」による函館市関係の登録申告者は584人、帰還希望者は232人、帰還者が32人であった(昭和21年『函館市事務報告書』)。
 朝鮮人に関しては、4月2日に函館港を出港予定の第二新興丸で約1300名を帰国させる予定であったが、指定場所に集まったのはわずか180名であったため(『函館引揚援護局史』の記述では111名)、4月11日に陸路朝鮮人を送出する日本側の基地となっていた仙崎収容所(昭和20年11月山口県大津郡仙崎町に設置され、最初は下関引揚援護局の出張所であったが、翌21年10月、引揚援護局に昇格)に送られた(昭和21年4月18日付け「道新」)。
 第2回目は、4月20日に北緯38度以南の朝鮮に帰国する者約1800名を釜山に向けて輸送する予定であったが(同前)、この場合も、帰国のため函館に集まった朝鮮人はたった205名に過ぎず、新興丸が205名の朝鮮人を乗せて函館から釜山収容所に直航した。これを最後に、函館援護局からの朝鮮人の直接送還は中止された(『函館引揚援護局史』)。
 このほか、5次にわたる引揚者のなかに、第2次を除いて「非日本人」とされる人びとが287世帯・425名含まれていた。その内訳は表1−9に示すとおりである。これらの人びとのなかでも朝鮮人は旧日本軍の軍人だった者が多く、日本語に堪能であったため日本人と共に引揚げてきたという事情があった。しかし、日本人としての扱いにはならないため、送出港である佐世保に移送された(同前)。
表1−9 「非日本人」引揚者
年次
朝鮮人
中国人
台湾人
沖縄人
奄美大島人
合計
昭和21
4
 
 
 
 
4
22
184
2
13
40
59
298
23
118
 
 
2
1
121
24
2
 
 
 
 
2
合計
308
2
13
42
60
425
『函館引揚援護局史』より作成
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