通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第5節 戦時下の諸相
3  強制連行と捕虜問題

1 函館在住の朝鮮人

大正末期の在函朝鮮人

昭和初期の朝鮮人

大正末期の在函朝鮮人   P1239−P1241

表3−36 函館区の植民地人(大正9年)
国別
区別
函館区(a)
札幌区
小樽区
総数(b)
a/b×100(%)
植民地人 朝鮮人
台湾人
樺太人
264
1
3
71

1
103
1
3,462
28
18
7.6
3.6
16.7
268
72
104
3,508
7.6
『国勢調査報告』(大正9年)府県の部/北海道より作成。
注)総数は全道の数字を示す。
 大正9年10月、第1回国勢調査が実施されているが、その調査結果を函館区の「植民地人」を中心に示すと表3−36のようになる。この表にみられるように、函館区の植民地人は268人であるが、その実態は264人を数える朝鮮人であることは明らかであろう。そして、札幌区、小樽区と較べても、函館区の朝鮮人は圧倒的に多く、全道で3462人を数える朝鮮人の7.6%が同区に居住していたのである。
 次に、同11年の「函館新聞」は、「区内の外人と鮮人/筆頭は百八十余名の露人/露国人は婦人が多く支那人は商人が多く朝鮮人は悉く労働者」との見出しのもとに次のように述べている。

…次に鮮人は幾名かと云ふとその悉くが労働者で、約四十名程居住してゐる。尤も鮮人は絶えず異動してゐるので的確な事は判明せぬが、四月下旬から五月に掛けて毎年(北洋−引用者)漁場行の労働者として著しく増加を示して居るが、今年は現在の処四十五名で内十名は婦人で、音羽町の料理店うつくし家の女中五名に酌婦三名が旭町の某家にゐる筈であるが、此の三名は近く尼港に渡るとの事であるが、一体に朝鮮人は漁夫と土工夫で区内在住の外人に比しては頗も貧弱な生活でゐる。此外数え上げると種々居るが、鮮人が最も変化が多いやうだ。

 さらに翌大正12年6月19日付けの「函館新聞」には、「函館在留の鮮人」に関して、次のような報道がなされている。

 現在市中に居る鮮人の数は三百名からで重に労働者であるが、勘察加へゆく漁夫もあり、奥地へゆく土工夫もある。是等鮮人の宿は東雲町の山キ、大黒町の丸上(まるじょう)、東川町の山キ旅館で、夫婦づれや小供を抱へて淋しい旅愁を味はつて居る。一年を通じて函館を通過する鮮人の群れは約二千名からで、今では日本人の姓名を名乗つて来る者も少くない。命名(なづけ)親はといへば親方−といふ、親方とは誰か、土工夫の棒頭である。昨今毎日連絡船で来るのは廿名位であるが、市中に居る鮮人は多く線路工事や道路工事に働いて居るが、黒板(ぶらっくりすと)に乗つて居る者は一人もないそうな。

 この記事にもみられるように、市内在住の朝鮮人は300人程度で、主に労働者であった。これに加えて、函館という都市の地理的条件から、北海道内陸部やカムチャツカ方面に向かってこの町を通過する朝鮮人が、年間約2000人にものぼっていたのである。そして、在住朝鮮人の一部「自覚せる者」の中から、異境で生活難に陥る同胞を救済するために「労働組合」を設立する動きが表面化、同12年1月には組長に全承浩、副組長に宋桂祥、幹事に夏学優その他数名の者が選ばれ、臨時事務所を東雲町241に置いた。組合設立の目的は、失業者の就業対策に加えて会員間の親睦にあり、とりわけ、「鮮人労働者の需要に対しては全責任を負ふて供給すべく」、また、「悪鮮人前借逃走等に対し責任を負ふべく」、規則書を作成している点が注目される(大正12年4月26日付「函日」)。
 なお、この組合は、昭和3年頃には有名無実の実態にあったようである。北海道庁「朝鮮人団体調」(昭和3年6月末現在)によれば、当時道内には、朝鮮人相扶会(夕張町、会員241人)、朝鮮人親睦会(小樽市、同182人)、朝鮮労働青年会(小樽市、同6人)と並んで、函館市東雲町241、木村シゲ方に北鮮労務組が置かれていたと記されている。この団体の創立は大正12年11月20日とあって、「函館日日新聞」の報道とはやや異なっているが、前記の三団体と較べて最も早く設立されている。創立の目的は、「在住鮮人相互間ノ親睦ヲ計リ疾病其他苦境ノ場合ニ共済シ人格ノ向上ヲ図ル」ことにあった。また、会員の主な職業構成は、日雇、仲仕、飲食店、料理店、漁夫などの下層労働者であった。しかし、昭和3年6月末現在では、会員数は「不定」、幹部もいず、活動状況も「現在ハ全ク有名無実ノ情況ニシテ何等ノ行動ナシ」と記されている。もっとも、朝鮮労働青年会も同様の状況ではあった。
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