通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第5節 戦時下の諸相
2 戦時下の外国人

イギリス領事館とデンビー

ソ連領事館の動向

亡命ロシア人の受難

在留中国人の苦難

その他宗教関係者

ソ連領事館の動向   P1232−P1233

 函館のソ連領事館は漁業問題との関わりで、他領事館にはない特殊な事情にあったといえよう。利害がからむ日魯漁業株式会社は、査証その他、漁業関係事務で少しでもソ連領事の心証をよくしておきたいし、一方軍関係者は防諜という観点から厳しい対応をしなければならないというジレンマがあった。対するソ連領事側は、当然ながら様々な情報収集に奔走しようとし、日本側官憲との軋轢が生じることもあった。このような状況から、ソ連領事が種々の口実で査証の発給手続きを遅らせ、特定の人物に査証を拒否するなどは日常茶飯事であった。
 折から昭和13年は日ソ漁業条約の効力延長に関する交渉がついに決裂して、日本側には自由出漁という強行手段の声も聞こえるようになった。そして函館ソ連領事は12月25日に引き揚げるという事態に至った。この件に関して領事は、日本官憲の不当な圧迫に閉口し東京大使館に引き揚げたと声明を出している。しかしこの切迫した状況も翌年4月に日ソ漁業条約暫定協定の妥結がなったことで鎮静化に向かった。函館領事館も再度開設され、出漁に関する事務が再開されることになったのである。
 だがこの引揚げ問題が治まったあと、新たな問題が発生した。昭和14年、漁業家の中瀬捨太郎が領事館敷地は自分の名義だと主張、明け渡しをめぐって訴訟をおこしたのである。中瀬の背後には実は軍部の影があったことを戦後常野知一郎が回想記で暴露している(『私の終戦史』、道南の歴史研究会)。領事館が高台にあり、海軍の軍艦等が出入りする函館ドックがまる見えであったため、何とか追い払いたかったという。それで軍部は資金を調達して中瀬に渡し、もともとの所有者から地権を買取らせ、そして立ち退きを要求させたのである。領事館はこれに応じなかったため、正門におよそ高さ1メートル、幅3メートル50センチの塀をたて入り口を塞ぐという嫌がらせも行った。
 これを解決したのは日魯漁業株式会社であった。この紛争で出漁できなくなっては大損害を被るからである。結局会社はこの土地を買取って地主となり、無条件無期限で領事館に改めて貸し出し決着した。このように函館では北洋への出漁が続行される間、終始日ソ双方の報復的な活動がみられたのであった。
 昭和16年6月、ドイツがソ連に宣戦布告し開戦となるや、領事館には大きな衝撃が走り領事館員は狼狽して仕事も手につかないほどであったという。この時館員の家族11名が引き揚げた。
 昭和19年、北樺太石油及び石炭利権のソ連への委譲により、同地の「オハ」と「アレクサンドロフスク」の日本領事館が閉鎖されることになった。これに対応してソ連側も同年6月をもって日本国内の敦賀と函館の領事館を閉鎖したいという通告をしてきた。敦賀は6月中に閉鎖となったが、函館は期限を延長し漁業期間中館員を残留させることに合意した。漁期も終わる9月末日、ザヴェーリエフ領事夫妻と通訳のアレクセーエフは湯の川温泉において日魯漁業株式会社の招待による送別晩餐会に出席した。会社の首脳部のほか登坂函館市長も出席し、盛大な酒宴が張られたという。こうして函館ソ連領事館は10月1日をもって閉鎖となった。
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