通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第5節 戦時下の諸相
2 戦時下の外国人

イギリス領事館とデンビー

ソ連領事館の動向

亡命ロシア人の受難

在留中国人の苦難

その他宗教関係者

 長く函館にいた外国人たちも、時局が緊迫してくると故国へ帰る、あるいは第三国へ出国せざるを得なくなってきた。以下に、その様子をあげることにしよう。なお特に断りがない限り、「外事警察概況」および「外事月報」(荻野富士夫編・不二出版の復刻版による)を資料とした。

イギリス領事館とデンビー   P1231−P1232

 函館でデンビーと言えば、北洋漁業や外国貿易で財をなし一世を風靡した人物であった。しかし、彼も函館に留まることはできなかった。昭和9年12月31日に函館イギリス領事館は閉鎖されたが、そのあとデンビーは 「領事事務官」という肩書きで事務を掌握していた。当初、領事館内に居住していたが、昭和12年からは末広町の貯蓄銀行ビルに事務所を構えた。時局柄横浜総領事館ではデンビーに命じ函館や室蘭の港湾をはじめ、北海道の事情を調査させようとした。北海道庁ではこういった活動に目を光らせ、デンビーには尾行がつき、戦時経済体制の実効性に懐疑的な発言をしているなどと逐一報告がなされた。
 一方、本業の貿易商としての活動は不振となり、戦時経済統制下にあっては厳しい状況にあったようだ。そのためデンビーは上海での事業展開を画策、昭和14年には社員を派遣し販路の研究をさせ、自らも度々渡海するようになった。
 同14年、日本全国でいわゆる排英運動が熾烈となるが、函館も例外ではなく排英市民大会が開かれた。ただこの主催については市議会で紛糾し、日魯漁業株式会社の対英経済上における利益を考慮し、函館市の主催ではなく、トーンをおとし反英市民同盟の主催となった。このあたりは、貿易港らしい感覚といえようか。
 昭和16年12月8日、いよいよ英米に宣戦が布告され戦争が始まった。イギリス大使館や全国の領事館には、職能停止とラジオや無線電話の押収、電話線の切断が行われた。デンビーはこの年3月以来上海におり不在であったが、北海道庁が非常措置を実施するとし、12月10日、領事事務所使用人畑中昌太郎を立会わせ、事務所に封印を施した。デンビー自身は、12月9日付けで横浜総領事にあて領事事務官の辞任届けを提出していた。その後事務所の貸主であった函館貯蓄銀行が明け渡しを求めてきたため、同18年2月22日に非常措置が解除され、同銀行に渡された。なおデンビーは戦争が終わるまで上海で過ごし、昭和22年に帰国したが函館にはもどらず、同28年、鎌倉で亡くなった。
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