通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第3章 戦時体制下の函館
第2節 戦時体制下の産業・経済
3 戦時下の港湾産業
4 港湾運送業の戦時統合と自由労働者

第1次統合

第2次統合

自由労働者の登録と組織化

自由労働者の登録と組織化   P1177−P1178

 函館港に働く港湾労働者は、労力供給業者103名の把握している者約2000名の外に、彼らの外側に存在する「自由労働者」といわれる労働者の大群がいた。別名、「立ん棒」(たちんぼ)である。
 函館港の港湾労働の特色は、国鉄および海岸町以北の新港湾以外、季節労働であり、従って臨時日雇労働であったということである。大正時代以来、北洋漁業関係の港湾運送労働を基本とする関係で、北洋漁業の繁忙期、5月から9月にかけての半年間だけ就労する労働者の中に、このような「立ん棒」が多くいたのである。
 昭和16年10月7日の「函館新聞」は、その自由労働者の登録化が労働指導所によってすすめられている様子を次のように報じている。「函館水上署の協力の許に、過去二ヶ年間鋭意登録事務を取扱つて来た結果、今年においては、さる五月二十二日以来九月休日迄に自由労働者三千百七十二人を登録、これを完全なる統制の下に労務調整を行ひ、自由労務者として″立棒式″労働者を函館港湾より一掃せしめる効果を上げ得た。即ち従来、自由労働者…は、労力供給業者の手に入らず、又各荷役業者の常傭労務者とも成らずに居る労務者と、農閑期を利用して郡部から市内に出稼ぐ臨時労働者、北洋方面よりの帰還漁夫で繁忙期に一時的港湾労務者となるもの等で、何れも各個ゝゝにその労力を傭主間との相談賃銀にて提供することを目的としてゐる者で、労力不足の際につけ込んで賃銀統制を乱すこと多く、又労務者としての素質も漸次低下して、完全なる労務調整に阻害となり、反時局的存在とさへ見られて居たが、前記の労働指導所の調整進出によって右期間中この自由労働者の需給統制を扱った結果の数は一日平均三百五十人、一方供給業者方面の取扱ひをも換算すると一日約六百人となり、大体一日平均五、六百人と見做されてゐた自由労働者は完全に統制され、明年からは″立棒式″自由労働者の名称存在は函館港湾の労働者中から皆無となる」。
 昭和18年6月3日「北海道新聞」は、大日本労務報国会創立の際の新会長吉田茂が、「現在日傭労務者及び業者の人達は、地下底、軍手などの必要物資を十分配給されない。所によっては賃金による労務者の獲得運動などもあり、これはいけないことで、地方の人達が中央の産報のような中央指導機関を作ってくれと、本当に下から盛り上がってこの組織が出来上ったわけです……。親分子分の関係を活かして協力……」と語ったと報じている。
 自由労働者は、賃金統制令により、各地方の労働指導所に登録、多く大日本労務報国会に入ったと考えられる。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ