通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第2節 戦時体制下の産業・経済
1 経済統制下の函館経済
3 戦時下の海運事情

海運統制と船舶運営会

北部機帆船運航統制会社の設立

海運統制と船舶運営会   P1139−P1141

 満州事変以降、経済界は統制化へと進んでいったが、海運界も同じく時代の波に直面することになった。準戦時下のなか運賃や用船料の高騰化が顕著となってきたため、昭和12年に国内の大手海運会社は海運自治連盟を創設して自主的な統制体制を確立しようとした。それは第1次大戦当時の異常な海運市況の体験を踏まえたものであった。そこに日中戦争が勃発したために政府は同年9月、臨時船舶管理法を公布した。これによりただちに国家統制に移行したわけではないが、統制化への道筋が整えられたのである。
 昭和14年に海運統制委員会が設置されると、従来の自主規制から官民が協力するという統制の新しい段階に移り、さらに国家総動員法の公布に連動して15年2月には海運統制令が施行され、ここに国内の海運は政府の管理統制下に置かれたのである。
 同年11月には海運中央統制輸送組合が結成され、全国を12(不定期船部門が8、その他が4)のブロックに編成し統制の徹底化を囲った。不定期船部門の第6組(11社からなる)には小川合名会社(2000トン級汽船を4隻所有)や日下部汽船(株)などが組み入れられたほか、日魯漁業(株)、太平洋漁業(株)といった大型汽船を擁する漁業会社や北日本汽船(株)、栗林商船(株)なども組合の傘下にあった。なお小型汽船を所有する海運会社は第12組の小型汽船統制輸送組合に加盟した(同年11月3日付「函新」)。
 この頃の函館の海運会社は函館船主同盟会の構成によって知ることができる。昭和15年では同会は会長が小川合名会社、副会長は金森商船(株)、幹事に函館海運(株)、日本郵船(株)函館支店、千島汽船(株)、日下部(株)函館支店のほかに日魯や日水など、会員には函館汽船(株)、西出事務所、小熊商店船舶部、北日本汽船(株)とあり、総勢21社から構成されている(昭和15年『函館要人録』)。すなわちこれらの海運業者が、おもに戦時下において様々な輸送業務に従事していた。なお命令航路は15年時点では逓信省が函館・ペトロパブロフスク線と函館・樺太線(恵須取)の2航路、北海道庁は函館・小樽線、函館・択捉線(東西の各線)、函館・占守線など7航路、樺太庁は函館を起点として本州諸港を寄港して最終は恵須取という循環路線のものが大阪・函館・小樽・樺太線など3航路、その他3航路の計6航路であり、朝鮮総督府は北海道・北支線(函館起点、大連・天津に寄港して青島)や根室・函館・上海線などの9航路となっており、これらは戦間期の航路を継承したものや新規の航路も含まれているが、カムチャツカ、千島、樺太、朝鮮方面へのものが多いことが、函館の流通事情と一体であることがわかろう(昭和16年版『函館商工名録』)。
 ところで17年4月に政府の代行機関として船舶の一元的な国家統制を行う船舶運営会が設立された。この結果、前述した統制組合は解散した。運営会は507社から構成されたが、なかでも第1次特定大型船として指定された会社40社に日魯漁業(株)や日下部(株)、北日本汽船(株)などが含まれたほか、一般構成員としては小川合名、金森商船(株)など13社があげられる(『函館海運史』)。なお運営会の発足した17年には金森商船は所有船6隻のうち東郷丸など3隻が公用船としての業務を行わねばならず、この結果、従来からの釧路便や択捉便に充分な配船ができずに苦しい経営を余儀なくされたという(「金森商船(株)営業報告書」金森商船(株)蔵)。
 運営会の函館出張所は17年5月に開設されたが、当初は小樽支局長が兼務した。運営会の実際の運航実務は大型船舶所有社が政府から指定を受けて従事したが、函館・小樽の船主は海運の既得権を守るために企業合同を行い、函館出張所の開設に先立つ4月に北海道運航会社を設立した。東京を本社として函館・小樽に支社を置いた。藤山海運の古谷直輔が社長となり小川弥四郎(小川合名)や渡辺正雄(金森商船)、安井理平(加能汽船)などの函館の船主が取締役に就任した(同年4月24日付「新函館」)。なお翌18年5月には運営会は「決戦即応体制を整える」(同年5月8日付「道新」)ために全国の重要な港湾に修繕監督を置いた。北海道では函館に設置されることになり、本部の審査課長が同月、函館に着任、修繕監督と出張所長とを兼ねることになり、体制強化が図られた。こうして函館の船舶も国家統制のなか徴用されて敗戦に至るまで軍事輸送等にあたった。

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