通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第2節 戦時体制下の産業・経済
1 経済統制下の函館経済
3 戦時下の海運事情

海運統制と船舶運営会

北部機帆船運航統制会社の設立

北部機帆船運航統制会社の設立   P1141−P1142

 昭和17年2月に函館商工会議所は北部機帆船運航統制会社の本社を函館に開設するよう陳情を行っている(昭和17年度『函館商工会議所事業成績報告書』)。機帆船とは当初は補助機関を有した20トン未満の小型船をさし、大正期に発達したもので船主が船長を兼ねる場合が多かった。漁業用途のほかに近海沿岸輸送に従事し、きわめて地域的に限定した航路に従事するという特徴をもっていたが、後には150トンクラスのものも登場する。この機帆船もまた前述した海運統制令のもとに国家統制に組み込まれていったのである。
 全国には2万余隻の機帆船があったが、全国を34地区に分け、それぞれに統制組合を組織させた。函館には渡島・檜山・胆振地区を包括する南部北海道機帆船組合が置かれるが、15年5月に創立総会が開かれ渡辺正雄が理事長に選出された(同年5月19日付「函新」)。南部北海道機帆船組合には機帆船業者をはじめ、曳船業者、被曳船業者も包括されており、その所属する噸数は7520トンであった。これは小樽の西部(4764トン)、根室の東部(4369トン)と比較しても規模の大きな組織であった。
 翌17年には汽船不足から北海道炭の東北輸送のために函館に北部機帆船輸送団が設立され、機帆船の重要がますます認識されていくが、そうしたなか政府は機帆船を国家統制の使用船舶として一元的に運航させるための組織作りに着手し、各地の機帆船海運組合を機帆船運航の統制会社に改組することにした。とりわけ北海道と東北とを結ぶ石炭輸送のために両地域の一体的な運営を行うために北部機帆船運航統制会社の設立が発表されると、昭和18年2月に函館市長、函館商工会議所会頭連名で海務院長官および函館海務局長あてに同社の函館への本店誘致を陳情している(昭和18年4月『函館商工会議所所報』)。

発足した統制会社
昭和18年6月16日付「函新」
 この陳情内容はこの当時の函館の状況をよく表現しているので紹介すると、函館港が北日本航路の中心であり本道と青森を連絡する唯一の港湾である。北日本沿岸を舞台に運送事業や遠洋漁業活動をする機帆船がそうした函館を根拠地としている。創立予定の北部機帆船運航統制(株)は北海道および東北6県の機帆船の運航を一元的に統制運営するのであるから東北6県の諸港湾より優勢な機帆船を包有し、本道の機帆船の結集する函館港が会社本店所在地となるのが妥当である。函館港は石炭その他物資の積出港であり重要な役割を持っているので、函館・青森間の海上輸送増強が緊急案件となっている関係からも会社業務の本拠として函館が最適である。また海務局の指示も求める場面も多く函館に所在している利点がある。さらに港湾都市として長い歴史もあり、外港設備の防波堤も近く完成し、埠頭設備の着手も検討されている。その他造船、修繕、船舶用具資材等の調達に便利の地であると諸条件をあげて函館が有利であるとしている。
 こうして同社の本店は函館に設置されることになり、新会社は回漕業者から運航権を買収して資本金500万円をもって18年5月に設立された。当初は金森ビルに事務所を置いたが、北海道庁の斡旋のもとに6月からは末広町の丸井百貨店に移り運航実務に乗り出した。同社はまもなく社名を北部機帆船運航(株)と改称したが、会社の取り扱った船舶は戦時標準型(建造日数の短縮および建造の簡易化のために船型を一定とした)の配給も受けて同年中には120隻ほどに及んだが、4・5月に函館から東北地方へ輸送した石炭は3万トン前後にものぼっている。
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