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通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第1節 戦時体制下の行政
2 大政翼賛会の発足と選挙

大政翼賛体制

函館の大政翼賛体制と翼賛選挙

大政翼賛体制   P1122−P1124

 『内務省史』によると大政翼賛会の成立は当時の政党の状況を抜きにしては考えられないという。日中戦争は先が見えないままの総力戦となり、短命内閣が続く状況となっていたが、昭和15年夏にドイツの電撃戦の成果が伝わると、首相を辞職後枢密院議長の職にあった近衛文磨は、強力な挙国政治体制(新体制)の確立を表明して枢密院議長を辞職した。彼は国民各方面の協力を期待したが、影響力を強めていた軍は一国一党国防国家を期待し、政党は挙国一致内閣の形成を模索して、7月6日に社会大衆党が解党すると8月15日までに政友会、民政党など全政党が解党してしまうなどさまざまな思惑が交差した。しかし新体制を発足させる前に米内内閣が総辞職したため、近衛が第2次近衛内閣を組織(7月22日)することとなり、新体制運動は政府の手で進められることになった。8月には閣僚から議員、官僚、ジャーナリスト、学者、革新右翼、財界人などまでを含んだ新体制準備会ができ、10月12日の発会式で総裁となった近衛首相は、「大政翼賛の目的は臣道実践の一語につきる」と挨拶し、高度国防国家体制を整備するために全国民を参加させる大政翼賛会が組織された。その運動目標は国民精神の昂揚・戦時生産力の強化・戦時国民生活の確立などであった。
 16年10月、東条英機内閣が誕生、ついに12月8日、日本は米・英に宣戦を布告した。以降、戦時統制はさらに強められ、組織の刷新と共に大日本産業報国会等が進めてきた運動をすべて翼賛会の傘下に統合を実施、一元画一的な統制組織は完成された。ついで、17年8月の支部規定改正で、翼賛会の世話役を部落会町内会に、翼賛会の世話人を隣保班に置いた。世話役、世話人は常会を指導して翼賛運動の徹底をはかることとなり、支部末端では町内会と翼賛会がほぼ一致するものとなったのである。なお、翼賛会は20年6月に解散するまで続いた。
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