通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
5 激化する社会・労働運動と三・一五事件

函館ドック争議と普通選挙

「三・一五事件」と函館

新労農党の結成と労働戦線

「四・一六事件」の影響

苦戦する社会運動の担い手

社会民衆党と鶴本徳太郎

『戦旗』函館支局事件

「全協四・二五事件」関係

昭和8年メーデー

「全協四・二五事件」関係   P1101−P1102

 昭和5年の「全協一二・一事件」に続く全協への取り締まりは北海道内において引き続き行われ、同6年の「全協九・二九事件」、同8年の「全協四・二五事件」、同9年の「全協五・四事件」、同10年の「全協七・一〇事件」が有名である。このうち昭和8年の事件は「三・一五事件」に匹敵する230名の検挙者を出しており、全協関係の労働組合員を中心に根こそぎ検挙の対象とされた。特高警察が「客年(昭和7年−筆者)八、九月頃より運動漸次熾烈化し本年(同八年)一月頃に至り札幌、函館、小樽等の地方に於ける組織確立せる哉の模様ありしのみならず之が推移に委する時は其の組織全道に及ばんとするの形勢ある実情」(『特高月報』昭和8年6月)と述べているように、函館が札幌、小樽と並んで依然として左翼運動の拠点の1つであった。
 この事件の報道が解禁されたのは昭和8年11月4日であるが、当時の新聞号外は「通信交通に魔の手/赤色残党またも暗躍」(「北タイ」)、「全協系極左分子の魔手/全道赤色化を企つ」(「小樽新聞」)とセンセーショナルな見出しを掲げている。230名の検挙者の内、起訴者は札幌20名、函館10名、小樽4名で、うち女性は9名。函館での起訴者10名のうち、5名は函館電話局の交換手だった(本間キクエ『交換台』)。この時期の函館における社会運動の特徴として、職場環境の改善という身近な問題から社会の矛盾に目を向けた女性たちがいたことがあげられるだろう。
 またこの頃から警察当局の取り締まりは左翼関係者や労働組合員だけではなく、文化運動などにも広がりを見せている。7年8月25日、函館の美術団体彩人社展に出品した桐田頼三の絵画が「反戦意識」を表現しているとして取り締まりの対象となった。しかし、この絵は戦場で闘う兵士と傷ついた兵士が描かれているにすぎなかった(8月30日付「函毎」)。
 函館における全協の組織は昭和6年9月、電話交換手を中心に全協通信労組函館電話局分会が組織されたほか、全協交運函館国鉄分会、全協化学函館地区準備会が結成され、同8年1月、労働組合分会の横の組織である全協函館地区準備会が結成されるにいたった。しかし、同年の「四・二五事件」は、函館において左翼運動のこれ以上の活動を許さなかった(山岸一章『相沢良の青春』)。この後、全協関係者の検挙は、昭和10年の「七・一〇事件」において全道で181名が検挙されているが、函館は10名(うち起訴留保2名)であった(『思想月報』)。
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