通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
5 激化する社会・労働運動と三・一五事件

函館ドック争議と普通選挙

「三・一五事件」と函館

新労農党の結成と労働戦線

「四・一六事件」の影響

苦戦する社会運動の担い手

社会民衆党と鶴本徳太郎

『戦旗』函館支局事件

「全協四・二五事件」関係

昭和8年メーデー

社会民衆党と鶴本徳太郎   P1097−P1100

 これまで見てきたように、函館の社会・労働運動は全体として左派の力が強かったが、「三・一五事件」以後は中間・右派の勢力が組織を伸ばすようになった。
 その経過について触れておきたい。大正15年12月、中央において労働農民党から離れて、社会民衆党が結成されたが、それまで北海道の無産運動は労働農民党一色と言っても良い状況にあった。昭和2年4月、小樽の海員組合を中心に社会民衆党支部が結成され、函館では、同年6月12日、社会民衆党支部が結成された。同年10月末における北海道での社会民衆党勢力は党員数609人で、うち函館支部は249人を占めていた(『新北海道史』第5巻)。また、同年12月の第2回同党全国大会では海員組合函館支部長の藤井親義が本部中央委員に選出されている。同党が海員組合をバックにしていたことと、函館は小樽と並んで海員組合の比重が高かったことを示す一例である。
 社会民衆党函館支部の中心的人物は鶴本徳太郎で、同支部の結成前は労働農民党函館支部書記長を務めていたこともあった。以下、社会民衆党と鶴本の主な活動を追ってみたい。結成初期の社会民衆党と労働農民党の函館両支部は共同行動を取るところに特徴があったことは前に述べたが、社会民衆党の活動は市政に関わるものが多く見られる。社会民衆党函館支部(船場町22)は、昭和2年12月26日、松下熊樋市会議長宛に「ゴ式焼却炉に関する請願書」を提出している。請願内容は、昭和2年度に8万4500円の巨費をかけて根崎道路海岸に建設した焼却炉の処理能力に疑問があるとし、「市民大衆の負担」の増大に批判の目を向け、「冗費を節し、能率の増進」をはかるために、施設稼働の実態を公表すべきと市当局に迫っている。また水電問題では、同年10月24日、独自に水電問題市民大会を開催し、聴衆800人を集め、「即時軌道舗装、現行料金制維持による均一域拡大、労働電車割引制実施」を決議している(松山前掲書)。
 社会民衆党は全国的には昭和3年2月の普通選挙において4名を当選させるなど、無産政党の中では労働農民党を上回って第一党の位置を占めていた。函館地方では、昭和3年8月、普通選挙後、初めての道会議員選挙が行われた際、社会民衆党は函館市から弁護士の鈴木民治が立候補し、渡島郡部からは鶴本が立候補したがいずれも落選した。
 こうした中で社会民衆党は「三・一五事件」などの左翼勢力の弾圧の中で組織内部の左右対立が激しくなっていった。昭和4年12月の第4回全国大会において西尾末広ら幹部の排撃をめぐって混乱し、西尾を擁護する党本部に対して、中間・左派系党員を中心に「社会民衆党反動化防衛全国協議会」が結成された。この中には、函館支部の鶴本と川崎弥三郎が入っていた。社会民衆党函館支部の活動には東京から派遣された会員刷新会芝浦支部長の石川四郎も加わり、昭和3年末から同4年にかけて、日魯漁業の北洋蟹工船の出稼労働者・漁夫を多数、組織することに成功していた。鶴本は昭和4年4月、函館総合労働組合、同6月、日本漁業者労働組合の設立にも関わった。
 また、昭和4年11月、社会民衆党函館支部の指導による日本借家人組合同盟函館支部が結成され、家賃値下げ運動が展開されている。鶴本は、昭和4年4月発行編集人となり函館を中心に「日本労働者新聞」を発行しており、その内容は、社会民衆党、日本漁業労働組合関係の記事で埋められている。
 しかし翌5年1月、先の「反動化防衛全国協議会」参加者を中心に全国民衆党を結党、7月には全国大衆党(麻生久委員長)が結成されたことから、社会民衆党函館支部の鶴本、峰岸、石田ら陸上派と呼ばれるグループは、5年10月3日、社会民衆党を出て全国大衆党を支持する「声明書」を発表し(10月4日付「函毎」)、翌11月2日、全国大衆党函館支部を結成した。この離脱行動にともない社会民衆党函館支部の組織は弱体化した(渡辺惣蔵『北海道社会運動史』)。
 昭和5年10月の市議会選挙において鶴本は全国大衆党から立候補したが、当選できなかった。社会民衆党はこの選挙で2名の当選者(前述)を出したが、この背景には社会民衆党の議員は海員組合と強いつながりを持っていたことがあげられる。鶴本はまた、函館消費組合の組織化の活動に熱心であった(後述)。また、鶴本はこの後、右傾化する労働戦線、政党の分裂・合同の際にはしばしば顔を出し、同8年2月、全国労働組合同盟(全労)函館地方労働組合協議会の委員長に就任している。その後、労働界から手を引き、同11年、函館商工会議所に勤務し、総務部長となった。同14年2月北海道庁主催の「中支貿易調査団」に参加し、上海、漢口などの揚子江流域の視察を行っていたが、旅行途中、病にかかり、同年4月、上海にて客死した。鶴本には文才があり、『函館産業大観』の編纂のほか、没後、『日ソ漁業問題の解剖』、『中支経済示視察記』が刊行されている(函館商工会議所『函館商工会議所六十年史』)。
 昭和7年8月1日の反戦デーを機に政府米払い下げ運動が全国的な盛り上がりを示した(山本秋『昭和米よこせ運動の記録』)。函館ではこの数か月前から函館消費組合、全国大衆党函館支部、函館合同労働組合が政府米獲得期成同盟準備会を組織し、8月3日、「政府米を直に八銭で払い下げ、失業者及び貧農を救済しろ」のスローガンのもとに代表10名が市役所に陳情した。陳情団は消費組合旗を市役所門前に掲げ、団を代表して鶴本徳太郎が「諸君、政府は一昨年から百五十万石内外を海外に一升九銭でダンピングしてゐる。この我国は今や貧窮のドン底にあへでゐる秋に一升廿四五銭を取つて海外の支那人や其他には九銭で払下げるのだ。何と不埒極まる話でないか。だから我々は消費組合と共に十五万石を一升八銭の割で直ちに払下、失業者貧民を救済しろ」(8月4日付「函毎」)と演説し、代表者数名が検束を受けた。8月25日にも函館米よこせ会主催の演説会が東雲町衛生事務所で開催され、鶴本らが検束された(松山先掲書)。
 戦前の北海道における消費組合運動は農民組合が熱心に取り組んでいた。特に昭和4年11月開催の全国農民組合(日本農民組合の後身)北海道聯合会第2回大会で「消費組合運動具体化の件」が論議され、上川、空知、十勝、北見など農民組合活動の活発な地域で組織されたが、函館では鶴本が熱心であった。
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