通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
5 激化する社会・労働運動と三・一五事件

函館ドック争議と普通選挙

「三・一五事件」と函館

新労農党の結成と労働戦線

「四・一六事件」の影響

苦戦する社会運動の担い手

社会民衆党と鶴本徳太郎

『戦旗』函館支局事件

「全協四・二五事件」関係

昭和8年メーデー

「三・一五事件」と函館   P1093−P1094

 無産者候補は厳しい取り締まりの中での初めての普通選挙であったが全国で労農党2名の他に全部で8名が当選(全議席466名)した。無産政党の勢力は議会の中では極めて少数であったが、これ以上の進出を恐れた政府によって、昭和3年3月15日未明、左翼勢力の一斉弾圧である「三・一五事件」が引き起こされた。この事件は1道3府27県にわたる未曾有の規模の弾圧事件であったが、北海道は検挙者数、起訴者数においてそれぞれ3番目、4番目を占め、当局にとって検挙対象者の重要地域として位置付けられていた。特に、札幌・函館・小樽・旭川・室蘭・釧路・美唄の各署では特別の体制が敷かれた(荻野富士夫『北の特高警察』)。「三・一五事件」の検挙者・起訴者数は、全国でそれぞれ4000名・484名、北海道内で213名・61名、函館で51名・17名に達した(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部『不屈二十年の歩み』)。この数は小樽の検挙者数88名、起訴者数19名に次いで多い数字である。
 本事件は大正14年に普通選挙とともに施行された治安維持法にもとづく大弾圧事件という性格を有していた(奥平康弘『治安維持法小史』)。主な関係者の氏名と検挙時の年齢・経歴は次の通りである。

鈴木治亮(30歳、労農党函館支部書記長、函館港内労組書記)、村上由(27歳、無産青年函館支部執行委員)、斉藤金市(30歳、函館一般労組執行委員、労農党函館支部執行委員)、静秀雄(29歳、ドック工愛会常任委員)、小橋秀夫(29歳、ドック工愛会執行委員)、森永啓次(26歳、函館水電交誼会副会長)、志田謙二郎(30歳、函館一般労組)、長谷川春吉(22歳、無産青年同盟函館支部、函館一般労組執行委員)、森内幸吉(21歳、函館水電交誼会執行委員、労農党函館支部執行委員)、佐藤忠寿(21歳、函館一般労組執行委員、労農党北支連執行委員)、中兼豊吉(ドック工愛会)、中村健一郎(29歳、函館一般労組執行委員)、水谷三重三(29歳、無産者新聞函館支局長)、五十嵐徳一(函館水電交誼会執行委員・車掌)、伊藤富雄(ドック工愛会執行委員)、小原道雄(ドック工愛会常任執行委員)、釜谷健一郎(ドック工愛会執行委員長)

 この他にも起訴はされなかったが、当時の主なる幹部はことごとく検挙されており、「三・一五事件」はまさに一網打尽の左翼検挙であり、これが社会・労働運動の沈静に与えた効果は大なるものがあった。同事件の一審判決は昭和3年11月28日に行われ、12名が有罪判決を受けた。控訴の後、昭和4年5月31日、大審院での最終判決が出され、鈴木・村上は懲役5年、その他7名が2〜3年の実刑を受けた。なお、鈴木治亮、斉藤金市、森永啓次は獄死した。
 また、函館警察署での検束者に対する非人間的な取り扱いについて、労農党代議士山本宣治が昭和4年2月8日、予算委員会において「福津正(昌か)雄、静秀雄」の事例を取り上げている(『山本宣治全集』第5巻)。
 「三・一五事件」の大弾圧によって、函館の社会・労働運動も大きな壁に直面せざるを得なくなった。この年のメーデーは海員組合出張所主催の示威行進が行われた程度となり、翌4年は、記念演説会のみの寂しい内容に終わっている。
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