通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
4 労働争議と無産政党の結成

函館交通争議の始まり

政治的高揚と無産政党の結成

函館第1回メーデー

労農党函館支部の結成

労働争議の拡がりと第2次水電争議

水電買収問題

漁業労働者問題

警察の介入

函館第1回メーデー   P1078−P1080

 大正15年5月1日、函館における第1回の大衆的メーデーが屋外で開催された。地元新聞は「けふ公園から繰出した最初の労働行列/赤白長旗を翻し秩序整然/市中を練り廻る」と見出しにつけ、次のようにその模様を伝えている。
 「函館地方労働組合協議会主催のメーデーは今一日催された。之に参加の水電交誼会、鉄工職組合、印刷工組合、合同労働、造船工組合の労働者約五百名は白の長旗や赤の組合旗を翳して続々公園さして集つた。取締の函館署からは正私服合せて百五十余名の警官並に憲兵隊の私服まで繰出しそれに折柄絶好な麗から春日和とあつて公園を散歩する多勢の人が群がり時ならぬ賑はひを見せた。正午公園広場の記念碑前の小山に水電交誼会の青野君が起つて開会を宣すると早くも労働者から拍手喝釆が起る。続いて各組合から代表者二十数名交るがわる起つて、兄弟よ横暴なる資本家を懲せ労働者団結せよと云ふ意味の五分間演説を試み気勢を上げれば何れも拍手を買ひ一時演説を終り、それより整列の上各自小旗を手に労働歌を高唱しつつゝ物々しい辻松署長指揮の警官隊に護られ秩序整然と午後一時半公園を出発。青柳町より十字街より弁天に出て浜筋を十字街から電車線路を若松橋に廻り帰途東雲町より電車線路を夕刻公園に帰到着した」とあり、「検束どころか注意もない平穏のメーデー」で終わったとある(5月1日および2日付「函日」)。

函館公園広場に参集した労働団(大正15年5月2日付「函新」)
 とはいえこの初めての函館のメーデーは道内では小樽と並んで盛大なものであった。なお参加者数は同上の「函館日日新聞」は「五百名」、「函館毎日新聞」は「三百名」、「北海タイムス」は「約八百名」と報道し、「無産者新聞」によれば主催は「函館地方労働組合協議会」で参加組合と人数は、「交誼会二百人、鉄工組合二百人、造船木工百八十人、合同組合五十人、印刷工四人、青年同盟西部班三十人、青年同盟鉄工班二十二人の合計六百八十六人」となっている。当日、各団体を代表して挨拶および演説をしたものは、青野三郎(水電、後に労農党市議)、山田五郎(鉄工)、佐々木鉄郎(造船木工)、福崎清虎(水電)、水谷三重蔵(三か)(合同労組)、土田喜之助(鉄工)、中村庄太郎(造船木工)、中島政雄(印刷)、汐谷政雄(合同労組)、山中(無産)、沢山松蔵(合同労組)などである。
 スローガンの中には函館独自のものとして「漁業労働者の保護立法」「親方請負制度の撤廃」が含まれているのが注目される。また集会では「吾々は大正十五年のメーデーを期して農民と労働者の確固たる団結の下に横暴なる資本階級の搾取と専制に抗議す」と決議した。
 大正15年10月24日、小樽で日本労働組合評議会北海道地方評議会大会が開催されている。この時の報告書に当時の北海道の労働運動の模様が述べられていて(大原社会問題研究所所蔵「函館関係資料」)、函館の活発に展開された初期労働組合運動の様子が記録されている。この報告書には、「一九二六年度、本地方所属組合」は「一、函館造船木工労働組合三五〇名 二、函館合同労働組合一〇〇名 三、函館鉄工労働組合一〇〇名 四、小樽合同労働組合一、二〇〇名 五、札幌合同労働組合一〇〇名 六、室蘭合同労働組合一〇〇名 七、釧路合同労働組合二五〇名 八、旭川合同労働組合改造協議会三〇〇名 計二、五〇〇名」とあり、函館は小樽と並ぶ勢力を有していた。また所属組合の主要産業は、「港内労働、運輸、造船、金属、製材であって、北海道地域として全く未組織状態にあるものは、漁業労働者、鉱山労働者、木材積取労働者である」と指摘されている。後述するように函館では特に無権利状態におかれていた漁業労働者の組織化が大きな課題となっていた。
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