通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
4 労働争議と無産政党の結成

函館交通争議の始まり

政治的高揚と無産政党の結成

函館第1回メーデー

労農党函館支部の結成

労働争議の拡がりと第2次水電争議

水電買収問題

漁業労働者問題

警察の介入

政治的高揚と無産政党の結成   P1075−P1078

 全国的に組織された労働運動の高揚により今度は大衆的な政治的結社の創立が求められた。全国的には、大正13年6月28日、安部磯雄・大山郁夫・賀川豊彦らが普通選挙実施を前に、合法無産政党創立の準備をすすめるために政治研究会を発足させた。同研究会には翌14年4月開催の第2回大会に、後に道内における農民組合運動のシンボル的存在となった旭川の荒岡庄太郎が出席している。
 政治研究会の第2回大会後、大山郁夫は北海道遊説を中沢弁次郎(昭和3年7月創立の全日本農民組合同盟の会長)らと行い、大正14年5月12日、函館の恵比須倶楽部にて無産党演説会を開催している。大山は「新政治意義の発生と無産政党の前途」と題し2時間にわたって熱弁を振るった(5月13日付「函日」)。その後、大山らは小樽・札幌・旭川へと向かい無産階層の人々を中心に熱狂的に迎えられ、演説会は大成功を納めた。この行脚は「北海道労働運動史上の一つのエポックを画する」(奥山亮『新考北海道史』)と言えるできごとであった。そして、同年7月5日、政治研究会函館支部が結成された(松山先掲書)。なお、大山は同年6月にも来函したとの記録もあるが、詳細は不明である(前掲『函館市史年表草稿』)
 このように高まる政治意識の強まりと当時の函館の様子は、大正14年9月20日に創刊された「無産者新聞」に最初から詳しく紹介されており、函館関係の記事は特に多い。「無産者新聞」は、「全国無産階級の政治新聞たらんことを期す」などとスローガンに掲げ、無産者新聞社が発行していたが、実際は当時、非合法の「コムニュスト・グループ」の機関誌であった。関連記事が多いことは何よりも当時の函館が社会・労働運動の全国的な拠点として、活発な運動が展開されていたことの証しである。大正14年11月1日付の「無産者新聞」第4号には、同新聞の「函館支局」が「高砂町十の鈴木治亮」方に設置されたことと同時に、当時の模様を次のように記している。函館における労働運動の「先づその口火を切つたは函館合同組合の成立で、本年(大正14年〜筆者)三月末作られたが、続いて函館市内電車水電会社の従事員より成る交誼会成り、五月に大争議を行ひて大勝した。これが大きな刺激となつて木工造船労働組合は旧来の職人組合的色彩を変じて近世(ママ)的組合となり、八月半ば賃鉄値下反対の争議を行ひて勝つた。最近、『函館無産団体協議会』成りて統一的運動をなし」「同地方の運動は鈴木、竹(武)内両君に負ふことが多い」と述べられている。また、11月1日には「鉄工職業組合」が生まれるなど、労働組合の相次ぐ結成が進み発展期の状況を知ることができよう。
 そして、次第に函館をはじめ全道的にも労働組合の組織化が進んだ。大正15年2月13日、函館・小樽・室蘭・札幌らの労働組合5団体970余人が小樽に結集し、日本労働組合評議会北海道地方評議会が結成された(ただし、法政大学大原社会問題研究所所蔵の資料「北海道地方評議会からの通信」によれば、結成日は同年2月15日とある)。同委員長には函館と並んで労働運動が活発であった小樽の境一雄(明治33年生)、争議部長には函館出身の武内清が就任した。この時点における所属組合は小樽総労働組合(583人)、函館造船木工労働組合(282人)、函館合同労働組合(38人)、札幌合同労働組合(45人)、室蘭合同労働組合(29人)の5組合であり、函館造船木工組合が拠点組合の役割を果たしていた(『新北海道史』第5巻)。
 日本労働組合評議会は、日本労働総同盟(友愛会の後身)の路線をめぐる右派幹部との内部対立から、大正14年5月24日に創立された「わが国左翼労働組合運動の最初の団体」であり、昭和3年4月10日に解散命令を受けるまで、戦闘的労働運動を続けた全国組織である。評議会系列の組織がいち早く北海道・函館にできたことは、この時期、本地域が左翼的労働運動の拠点であったことを示すものである。
 一方、道内において日本労働総同盟傘下の労働組合は大正12年に函館と小樽に日本海員組合の出張所が設立されたが、この時期には目立った動きは見られない。
 こうした流れの中で全国的に無産政党結成の声が高まり、大正14年12月1日、東京にて農民労働党(書記長浅沼稲次郎)が結成されたが、即日解散となった。北海道からは函館・小樽・旭川より代表者が参加している。無産政党の創設をめぐって全国的には左右両派の路線上の相違が浮き彫りになったが、函館では同年12月9日、造船・木工・水電・交誼会、合同労組、政研支部、鉄工組合の代表者が合同労働組合本部にて協議会を開き、「あくまで単一大衆党を」つくることで合意した(「無産者新聞」第8号)。
 函館においてこのような労働組合の共同戦線はこの時期日常的に行われている。例えば大正15年1月3日に函館造船木工組合第7回大会が開かれているが、この大会には鉄工職・政治研究会・合同労組などの団体も参加し、今後の共同戦線を申し合わせている(「無産者新聞」第2号)。また、同年1月15日には西川町の合同労組本部においてドイツ共産党の創始者で1919年のこの日虐殺されたカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグを記念した「カール・ローザーの日」に追悼集会が持たれている。
 さらにこの頃から全国段階からの指導、全道段階での交流も盛んになっている。3月3日には、日本労働組合評議会北海道地方評議会の結成を記念して三田村四郎(当時、評議会政治部長)、境一雄(北海道地方評議会委員長・小樽)、鈴木源重(小樽合同労組執行委員長)を招き、恵比須町の函館地方労働組合協議会事務所において労働問題演説会が開催された。こうした労働組合組織化の高揚によって、大正15年3月には、函館船渠工愛会、同年9月函館鉄工組合、昭和2年函館港内組合、9月には北海漁業労働組合の結成と続いた(『新北海道史』第5巻)。
 また、大正15年3月6日、労働農民党(委員長杉山元治郎)が結成されるが、大会には函館・小樽より鈴木治亮、吉田清ら4名の代表が参加している(松山先掲書)。

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