通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第8節 諸外国との関係
2 イギリス領事館と在留イギリス人

イギリス領事館の存在意義

生涯を函館で過ごしたイギリス人たち

ハウル商会とウィルソン

「外人墓地」と永代借地権

イギリス領事館の存在意義   P1025−P1027

表2−223 明治以降の歴代イギリス領事一覧
発令・着任年月
肩書/氏名
1871(M4)/11
1873(M6)/7
1880(M13)/9
1883(M16)/2
1883(M16)/7
1884(M17)/10
1888(M21)/6
1889(M22)/9
1890(M23)/11
1892(M24)
1893(M25)
1895(M28)/6
1896(M29)/4
1897(M30)/2
1898(M31)/9
1899(M32)
1900(M33)
1901(M34)/8
1902(M35)/8
1903(M36)/12
1905(M38)/6
1906(M39)
1907(M40)/3
1908(M41)/8
1910(M43)/4
1911(M44)/10

1914(T3)/2
1915(T4)/4
1919(T8)/5
1920(T9)/1
1920(T9)/9
1925(T14)/3
1926(T15)/11
A.C./J.Troup  トゥループ
C./R.Eusden  ユースデン
C./J.J.Quin  クイン
C./J.J.Enslie  エンズリー
A.C./W.A.Woolley  ウーリー
C./J.J.Quin  クイン
A.C./H.A.C.Bonar  ボナー
A.C./F.W.Playfair  プレイフェアー
A.C./J.H.Longford  ロングフォード
A.C./J.C.Hall  ホール
C./J.C.Hall  ホール
A.C./A.M.Chalmers  チャームズ
C./H.A.C.Bonar  ボナー
C./R.de B.Layard  レイアード
C./F.W.W.Playfair  プレイフェアー
C./A.M.Chalmers  チャームズ
C./F.W.W.Playfair  プレイフェアー
X.C./A.E.Wileman  ワイルマン
A.X.C./R.G.E.Forster  フォスター
X.C./R.G.E.Forster  フォスター
A.X.C./H.Horne  ホーン
X.C./R.G.E.Forster  フォスター
A.X.C./E.L.S.Gordon  ゴードン
A.X.C./H.G.Parlett  パレット
A.X.C./W.M.Royds  ロイズ
X.C./E.L.S.Gordon  ゴードン

X.C./G.B.Sansom  サンスン
A.X.C./F.C.Greatrex  グレートレクス
X.C./W.G.デービス
X.C./G.B.Sansom  サンスン
X.C./F.C.Greatrex  グレートレクス
X.C./H.A.マックレー
W.G.デービス(大使館)の掌握
「在本邦各国領事任命雑件」(外交史料館蔵)などより
注)肩書 C.=領事 A.C.=代理領事
      X.C.=副領事 A.X.C.=代理副領事
ただし、1935〜41年までA.デンビーが領事事務官
 函館に住んでいたイギリス人は明治から昭和初期を通じて、20人前後にすぎない。また貿易にしてももとより神戸や横浜とは比較にならない。それにも関わらず、他国とちがって、唯一イギリスはとぎれることなく幕末から、昭和9年に廃止されるまで領事館を維持してきた(表2−223)。この事実は、開港場としての函館の位置付けを考える上で、示唆的に思われる。
 明治40年の大火で焼失した領事館(管轄は北海道と東北北部)の再建(大正2年竣工)をめぐって、函館からの移転問題が持ち上がったことがあった(清水恵「イギリス領事館の焼失・復興に関する報告」『地域史研究はこだて』15号)。候補にあがったのは、小樽や室蘭、札幌である。その時副領事の職務として、(1)イギリス臣民の保護、(2)イギリス船舶への援助、(3)イギリスの貿易利権の促進と商業情報の獲得が挙げられ、この機能を果たすには総合的条件からすると函館が最適であると判断されたのであった。しかしこれだけが職務なら、貿易の低調な港だったから、ロシアやアメリカがそうしたように、イギリスも撤退していても不思議ではない。
 イギリスが領事館を維持してきた理由は、前述した東洋艦隊の入港が大きかったと推測されるのである。この時代、世界は「パックス・ブリタニカ」といわれるように、イギリスを核とした平和バランスを保っていた。函館港は極東をめぐる列強の力関係という文脈のなかで、イギリスにとって保持すべき港だったに違いない。それが戦略上のことではなく、たとえ単に保養のための港でしかなかった、としてもである。函館には、彼らの信頼に足る病院があり、娯楽施設やレストランもあった。それに外国人を埋葬できる墓地もあった。また明治35年には次のような報道もなされている。

…英米両国の東洋艦隊は今後夏季の操練を北海道沿海に施行する方針にて、函館船渠の竣工を待ち居り、先に両国当局官吏は該船渠工事を巡覧し夫々約束する処ありしが、工事は昨今大に進捗し軍艦の収容差支なきに至りたれば、両国艦隊は安心して北海方面に遊弋し得らるべしといふ(同年7月15日「函館公論」)。

 函館港の機能が整備されるにつけ、イギリス艦隊にとっても重要性がましたといえよう。
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