通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第8節 諸外国との関係
2 イギリス領事館と在留イギリス人

イギリス領事館の存在意義

生涯を函館で過ごしたイギリス人たち

ハウル商会とウィルソン

「外人墓地」と永代借地権

生涯を函館で過ごしたイギリス人たち   P1027−P1029


ジョン・ウィルの葬列、後は英領事館
 大正に入り、幕末から函館に住み着いていた3人のイギリス人が他界した。ウィルソン(J.A.Wilson、大正5年没)、ウィル(J.B.Willl、大正9年没)、それにスコット(J.Scott、大正14年没)である。ウィルソンはハウル商会のところでふれるので、ここではウィルとスコットのことを記しておこう。
 ウィルは1840(天保11)年スコットランドに生まれて船員となり、そして極東にやってきた。上海のデント商会の傭船に乗り込み、万延元(1860)年に函館に一歩を印している。それから故郷にもどり、2等航海士の免許を取り、そしてブラキストン・マール商会の船長となった。約30年の海上生活を送ったあと、明治32年に函館イギリス領事館の警備官となり、以降函館で一生を終えたのである。彼は背が低かったので「三尺船頭」と呼ばれ、市民に親しまれた。「Loocking Back」という自叙伝を書いており、波瀾万丈の海上生活や函館で起きた様々な事件などが、実に興味深く綴られている(當作守男『ジョン・ウィルの回想記』、杉野目康子『ウイル船長回想録』)。
 スコットも同じくスコットランド出身で、1837(天保8)年の生まれである。彼は技術者であり、ブラキストンに招へいされ、函館には元治元(1864)年にやってきた。それから茅沼炭坑や佐渡の鉱山、釜石の鉱山でも仕事をし、再び函館に戻ったのは明治14年のことであった。そして元町の高台に洋館を建て、製網事業を始めようとしたらしい。実際製造が行われたのかどうかは不明だが、本国から綿糸の漁網を取り寄せ、北海道に普及させる契機を作ったのは、スコットであったという(明治15年1月14日「函新」、明治32年10月29日「北毎」)。
 なおスコットはポーター(A.P.Porter)が所有していた仲浜町の居留地(旧大町居留地)の借地権を、明治18年に手に入れた(図2−25を参照)。これはポーターが金策のために担保に出したためであった(明治17年12月24日「函新」)。ここには、土蔵や木造倉庫が並んでおり、スコットもハウル商会などに取り扱いを依頼して、倉庫業を営んだ(明治19年11月21日「函新」)。もっとも墓碑(馬場脩『函館外人墓地』)によれば、倉庫業は5年間しか行わなかったらしい。その後、明治25年、ポーターはこの土地を藤野四郎兵衛に正式に譲渡したため、ここは永代借地権が消滅した(『日本外交文書』24巻)。
 なお明治21年には、やはりこの居留地の一画で、デュース(J.H.Duus)が所有していた土地がスコットに譲渡されている(河野常吉資料433「北海道人物史料 外国人之部 附録函館外交史料」北海道立図書館蔵)。以来ここはスコットの亡きあとも家族に引き継がれたが、昭和18年に東邦水産株式会社に譲渡された。ここにあったレンガ倉庫は「スコット倉庫」と呼ばれてきたが、時代的にみればデュースの倉庫として建設されたものと思われる。前述のように倉庫業は短期間で止めたというし、明治27年からキング商会も使用しており、ずっと貸し倉庫にしていたらしい。
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