通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
4 函館ゆかりの文化人

芥川龍之介

藤原義江

寺崎廣業と小熊幸一郎

芥川龍之介   P905−P907

 昭和2年の5月に入ると、「函館新聞」は全紙を使って改造社の『現代日本文学全集』の広告を度々掲載した。それまでに刊行された全集ものは、いずれも豪華な装丁で高価であったのに比べて、この改造社版は1巻1円(参考までに、この年の雑誌『婦人倶楽部』の新年号が別冊付録付きで1円の定価であった)という、いわゆる「円本」全集ブームの一翼を担うものであった。5月16日の同紙には、「現代日本文学全集 映画のタべと文藝講演」と銘打って、「出版界に一大革命をもたらした改造社の現代日本文学全集は一度び發表するや怒濤の如き反響をみせたので、今回更に第二回の豫約会員を募集することになつた」という記事が見える。それによると、当日上映する映画は國木田獨歩の「酒中日記」、徳富蘆花の「不如帰」(どちらも『現代日本文学全集』に所収の作品)、久米正雄の監督する「作家の生活」などがあり、講演者には芥川龍之助、里見クを迎えることで、文学愛好者のみならず一般市民の関心を引くにも充分な企画であった。
 まさに、文壇の寵児とまでいわれていた2人は、主催者である改造社の比嘉春潮に伴われて16日夜来函し、翌日の午後公会堂で開かれた講演会に臨んだのである。いうまでもなく、この催しは大盛況で、4時半の開会に2時頃から人々がつめかけ、定刻までに集まった1千人もの聴衆を前にして、里見は「文藝の味わひ方」、芥川は「雑感」と題した講演を行った。
 ところで、13日に東京を発ち東北地方での講演を終えた後に来函したこの旅行は、相当なハードスケジュールが組まれていた。そのため、かねてより神経衰弱気味であった芥川にとって、心身共にかなりの疲労感を与えたであろうことは想像に難くなく、はじめて見る函館(ちなみに、里見は学生時代に2度北海道旅行をしているので、今回は3度目の来函であると記者会見で答えている)の印象を東京の小穴隆一に宛てた5月17日付けの書簡で次のように記している。

来函した芥川龍之介と里見ク(昭和2年5月18日付「函新」)

公会堂で開かれた講演会の模様(昭和2年5月19日付「函新」)

                 蝦夷の國 湯の川
                 芥川龍ノ助

拝啓 仙台・岩手を巡業し やつと津軽海峡を渡りて
函館へ参り候 函館は殺風景を極めた所なり
匆々湯の川へ避難 ここらは桜さき蒲公英さき
黄水仙さき 桜すずめと言ふ鳥啼き居り候
あひ変らず憂欝 夜々即時に死ぬる支度をして休み
をり候 これより札幌・旭川・小樽をまわり新潟を
経て二十四五日頃かへる筈 文中さしつかへなき所
だけ宅へもお洩らし下され度候
        (『芥川龍之助全集 第八巻』昭和52年 筑摩書房)

 この手紙の受取人、小穴隆一は洋画家で芥川の作品の装丁を数多く手がけており、芥川の家族とも非常に親しい関係にあった人である。なお、『日本近代文学大事典』(講談社)には、小穴の項で、「晩年の芥川とは、世間の常識からみればやや異常と思われるほどの親交をもった」と述べられているが、おそらく、芥川の信頼が最も篤い友人であったのであろう。実際に、来函後わずか2か月ほど経って、「芥川の自殺」というショッキングなニュースが世間を驚かすことになるのであるが、その時、夫人宛の遺書の中にも、「絶命後は小穴君に知らせる様、絶命前に知らせる事は小穴君を苦しめる事、並に世人を騒がせる虞れがある云々」と書き残された部分がある(昭和2年7月25日付「函日」)。夫人からの急報を受け真っ先に駆け付けた小穴は、芥川の枕辺で買い求めてきたばかりの新しいカンバスを使って、死の床の顔を簡素な油絵に描いている(昭和2年7月25日付「東京日日新聞」)。
 さて、前掲の函館から差し出した芥川の遺書めいた手紙によると、少なくとも、親友の小穴には既に自殺の決意のほどを打ち明けていたものと推察される。その小穴並びに菊池寛に宛てた『或る舊友に送る手記』は芥川の死後直ちに発表されたが、その中には、「僕はこの二年ばかりの間は死ぬ事ばかり考え続けた」と記してあり、自殺に至るまでの心理などを詳細に分析している。
 ともあれ、このころの函館の街は、現在にまで歴史的景観として残されている官庁、銀行、商店などの建築物が建ち並び、地方都市としての体裁も整いつつあり、そのうえ5月といえば、ようやく花々の咲き揃う1年で一番良い季節でもあった。しかし、「死」を覚悟していた芥川の目には、何を見てもただ「殺風景を極めた所」としか映らなかったのであろうか。
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