通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
4 函館ゆかりの文化人

芥川龍之介

藤原義江

寺崎廣業と小熊幸一郎

寺崎廣業と小熊幸一郎   P911−P918


「美術品記録」(小熊家文書)
 平成6年7月、函館における著名な樺太・北洋漁業家小熊幸一郎の関係史料が、遺族から市立函館図書館へ寄贈された。それらは「貸借対照帳」、「貸借元帳」、「金銭出納帳」、「銀行出納帳」、「株式賣買記録」、「事業方針録」などのノートブックから成る第一級の経済史料の集積であった。その中で、やや異質な感じをうけるのが「美術品記録」(大正8年・昭和9年)2冊と「美術品金銭受拂帳」(昭和3年)1冊である。さらに、明治42年から昭和24年に至るまでの小熊自身が記した「日誌」が残されていて、これもまた貴重な史料であることはいうまでもない。この「日誌」を見ていくと、小熊が関わった数々の事業についてそれぞれの時代の営業方針、漁場や船舶の買収価格、店員並びに「女中」教育、子女への訓戒など一事業家として、あるいは1つの家庭を統率する主人としての興味深い側面をも知ることができる。これらの記録に混じって「日誌」にもやはり美術品に関する記事が散見され、上京しても多忙な生活の中から折りをみて、美術倶楽部で開かれる名家の旧蔵品売り立てには足しげく通い、また、人を介して名品の所蔵家を訪れては鑑賞させてもらう様子がうかがわれる。
 『小熊幸一郎傳』によれば、小熊の趣味としての書画骨董の収集は、明治28年に独立して店を開いた頃からのもので、時々は贋物なども買わされているうちに、審美眼、鑑識眼が養われていったのだということである。その後、資産が増えるにつれて、東京でも一流といわれる本山豊實や平山堂伊藤平蔵という名だたる骨董商とも付き合い、確実な鑑定品を買うようになり、更に惜しみなく大金をつぎこむことによって、天下の名品と称されるものまでも手に入れることが出来るようになったのである。
 ところで、当時函館で骨董商として名が通っていたのは中イ竹谷石太郎という人物であった。竹谷は小熊と同じ弁天町に店を構えていて、お互いに表通りをはさんで極く近くに位置していたため、気軽に行き来が出来たのであろうし、また、将来に亙っての美術品収集についても、小熊の良いアドパイザーになり得たのであろう。大正3年発行の『函館商工録』には、中イ竹谷は明治28年創業の老舗で、「其時代に於ける珍品奇物は能く骨董好きをして愛翫措かざらしむるを常とす。故に各階級人士の嗜好を満たす上に於て當時遺憾なからしめんことにつとめ居れり。同店主は時代の珍品鑑識に長ずるを以て斯界に名あり」と紹介されている。また、それを実証するかのように、大正6年6月、東京で開催された赤星家の入札会の模様が函館の新聞にも報道されている。その当日は全国から3万人もの参加者があり、会場は空前の混雑を極めた状態であったが、この入札にも竹谷は函館から駆けつけ、北海道の美術奨励の為にも是非落札の栄誉を得たいと意気込み、狩野派の開祖といわれる狩野正信筆の「観音像」という名品を手に入れることに成功したのである(大正6年6月17日付「函新」)。
 それに加えて新聞報道では、竹谷がこの逸品を落札したのは函館の骨董商の鑑識眼と京阪の骨董界とも太刀打ち出来る位の実力を誇れるものであると伝え、いずれは、この名品も小熊の所に納まるのであろうと推測している。事実、小熊の「日誌」同年6月8日の項には、「午前十時ヨリ日本橋倶楽部ニ至リ、竹谷、宮川両氏ト共ニ小山常次郎、北岡猪三郎氏等ノ案内ニテ赤星家入札會ノ下見ヲ為シタリ。前代未聞ノ名品揃ナル由、茶器類陶器類ハ何レモ名品逸品ノミナル由ナレドモ鑑識ナキ故不明ナレドモ、古書画類ハ實ニ名品揃ヒナルニハ一驚ヲ喫シタリ。前下見ナルニモ係ラズ非常ノ盛況ナルニモ驚キタリ。普通ノ下見ハ明日、明后日ノ両日ナリ」と記されている。
 さらにこの年11月、東京で旧大名家である佐竹侯爵家の所蔵品大売り立てがあった時も、出京中の竹谷から啓書記筆の「渡唐天神圖」を2550円で落札したとの連絡を受け、函館にいた小熊の胸算用では、この作品には7、8000円を投ずる予定であったものらしく、同月6日の「日誌]には、「意外ノ安直ニテ大幸ナリシ」と感想を述べている。この時の売り立ては11月5日に東京の美術倶楽部で行われたもので、同月11日付けの「函館新聞」紙上でも、「東北では並びなき大々名の由緒ある珍寳奇什が出たので、東西の富豪連が我こそ入手せんと先を争ひ、中にも執心の好事家で聞こえた大阪の藤田男(爵)、久原房之助氏、鴻ノ他家初め東京では三井家、益田孝氏などが猛烈な争奪戦を開始した」中で、激しい競争に打ち勝って竹谷は「全国有数の斯業者間に伍して逸品を争ひ奇捷を博して帰つた事は、北海僻陬の同業者の為に萬丈の気を吐くものである」と評価されている。
 なお、この売り立ては、「経済界の不況も株の下落もあらばこそ人気はいやが上にも昂まつて、問題の信實三十六歌仙は驚くなかれ東西の富豪連で三十五萬円にせり上げられ」る有様だったそうで、会場の異常な熱気を感じとることが出来る。ちなみに、鎌倉期の似絵の名手藤原信実によって描かれたこの三十六歌仙図は、数ある三十六歌仙図の中でも最高傑作と伝えられる佐竹本のことで、結局35万5000円という破格な値段で落札されたのであった。しかし、この2年後には、折角競り落とした名品も所有者の事情により手放されることになってしまうのだが、その時には再び個人の資力で買い切れる者がいないという状態であった。そこで止むを得ず、絵巻は36枚に切断されて馬越恭平、団琢磨、益田孝、藤原銀次郎などの財界人や茶人連36人が集まり、抽選によって1人が1枚ずつ買い取って所蔵することになったのである。
 それはさておき、何といっても美術愛好家の小能だとって幸運であったのは、高名な日本画家寺崎廣業の邸宅を譲り受ける機会に恵まれたことであろう。自らの事業の拡大に伴う度々の上京に備えて、既に大正5年には東京に別宅を所有していたのであるが、このころ知人を通じてさらに条件の良い快適な住居を探していたものらしい。大正8年の4月になって、函館から上京中の堤清六に伴われて四谷にある売り家の某氏邸を訪問し、広壮な邸内を詳細に検分しているが、21日付けの「日誌」に「建物ハ業務ガ請負師木材商丈ケ十分ニ念入リナレドモ頗ル俗向キナリ」と記した通り、あまり気に入らない様子であった。ところが、同月28日、売りに出ていた小石川の寺崎廣業画伯の邸宅を一見し、「家屋ノ建築振リト云ヒ庭内の設備ト云ヒ流石画伯全盛ノ設計ニ係ル物故殆ンド欠点ト認ムル所ナク、実ニ美事ナル建築ナリ。殊ニ特長トスル所ハ華美ニ流レズ、高尚風雅ニ出来居ル点ニアリ」と「日誌」でも絶賛し、まさに購買意欲を大いに刺激されたのであった。
 寺崎廣業は慶応2年秋田に生まれ、上京して古名画の模写から修業をはじめて、展覧会に出品しながら精進を重ね、遂には優美な画風で人気を得た画家であるが、それまでにも函館とは若干縁のある人でもあった。廣業が若い頃師事していた同郷の平福穂庵は、上京するまでの一時期函館に居住していて、滞在中は函館の雑誌に挿し絵を描いたりしていた画家であった。また明治27年、廣業が北海道旅行をした際には、その前年より門下生を養成していたという事情もあったのか、この函館で野田九浦と鳥谷幡山という2人の日本画家志望者を弟子にしているのである。
 明治20年代、廣業はまだ無名画家に近い存在であったのだが、岡倉天心主催の日本青年絵画協会の展覧会で実力を発揮し、新派の日本画家として認められるようにもなっていた。一方、橋本雅邦の知遇を得ることによって、明治30年には32歳の若さで東京美術学校の助教授になることが出来た。さらに翌年、日本美術院創立にも関わり、第1回の絵画共進会では金牌は該当者がなかったものの、横山大観、下村観山と並んで銀牌を受賞している。また、廣業自身も天籟画塾を主宰し、弟子の養成に務めながら各種展覧会に出品を重ねて数々の賞を受け、明治40年には文部省が創設した美術展覧会(略称・文展)の審査員に任命されている。このようにして、大正5年に第1回天籟画塾展を開催した頃には、約300人の門下生を擁するまでになっていたのである(穂積利明「寺崎広業年譜」『寺崎広業』図録 北海道立函館美術館 1994)。

小熊が購入した旧寺崎邸(『小熊幸一郎伝』)
 さて、大正6年9月30日付けの「函館新聞」では「書畫の相場」と題した記事の中で、「一般の所では、ヤハリ現代大家の作品が高く賣れるさうで、東京で一時は観山、廣業、大観と言う順序であったものが昨今大観が第一である。廣業でも、大観でも、年に随つて落款を違へてくる。商賣人は夫を目やすに、新しいもの程値が高い。ソコデ廣業は最初『業』の字の横棒を二本書いたもので、之れを玄人は『二本廣業』と言ひ割が安い。次ぎに横棒の上左右の両點を書いたのが高い」と報じ、当時の廣業の人気画家ぶりがうかがわれる。しかし、その後ほどなく大正8年2月21日に、全盛期の廣業は惜しまれながら世を去ったのである。
 ところで、廣業は明治25年の結婚以来6回の転居を経ているが、同45年、47歳の時に小石川区関口町に引っ越してきた。小熊が寺崎邸を手に入れた大正8年11月25日付けの「日誌」によれば、「流石ハ現代一流美術大家ガ六ヶ年余ノ年月ヲ費シ心血ヲ濺ギタル丈ケアリ高尚優雅一点ノ難ズル処ナシ」と函館の知人への手紙に書いていることからすると、廣業は関口町に移転して間もなく邸宅の建築に着手したものと思われる。寺崎家では廣業没後の家政整理のために邸宅の売却を決めたもので、希望価格は20万円であったのだが、小熊は15万円に値を付け、それでも未亡人や嗣子廣載の了解を得ることが出来たため売買契約がまとまったものであった。
 小熊が故寺崎廣業邸を入手した評判は高く、10月2日の転居以来、この壮麗な邸内を鑑賞する目的の訪問者が押しかけ、口をきわめて皆一様に感嘆し、また、邸宅の意外な廉価には羨望の目を向けている。実際、小熊自身もハーバード大学へ留学中の長男信一郎への書簡の中でもこの事に触れ、「毎日遠近ノ知己友人ノ邸宅見物ニ忙殺サレ居ル。何分有名ナル大家ノ建築セル有名ナル邸宅故来観者一同驚嘆シ居ル。亦價格ノ意外ノ廉價ナルニモ一驚シ居ル。目下一般ノ評ニハ時價四五拾万ハ十分ナリト」と報告しているほどである(大正8年11月11日付「日誌」)。
 この邸宅売却に伴い、寺崎家では廣業所蔵の遺品の売り立てを行ったものか、小熊は美術倶楽部に出向いて「寺崎氏ノ遺物入札下見」をしているが、「三、四点ノ外ハ格別ナ品ナシ」と断じている(大正8年10月4日付「日誌」)。しかし、10月6日に行われた入札では、「廣業氏遺物ノ天下ノ名品タル呉道子筆観音圖ノ幅ヲ金三萬五千円迄入札スルコトニ決シタリ」と記している。結局は、意外に高値が付かなかったようで、小熊の「美術品記録」によれば、この時は2万5800円で平山堂から入手したことになっている。

《美人吹笙》(『寺崎広業』図録、北海道立函館美術館)
 このように次第に増えていく小熊のコレクションも、昭和3年になると画商へ売却したり、他の作品と交換するという記事が「日誌」に見えはじめる。「美術品金銭受拂帳」にも、明治33年から昭和2年までは買入代金の記載のみであったものが、売り物代金と差引支出金といった記録が登場するようになる。それを裏付ける事実として、同4年5月20日の「日誌」には東京の画商宛ての手紙に、「不用品賣却ノ件早ク好キ相手ヲ見付ケ御尽力ヲ乞フ。書画類ハ大抵東京邸ニアル。道具ハ半分當地ニアル。御来書次第直チニ送ル」と書いている。また、昭和5年と8年には、東京の美術倶楽部で大規模な所蔵品売り立てを行うが、財界不況の折りから「自分ノ物ヲ安ク賣ツテモ他ノ物ヲヨリ安ク買フニ良イカラ惜シクナイ」と達観していた小熊も、入札の状況を見て予想をはるかに超える安い値段に驚きを隠し切れない様子であった(昭和5年11月17日付「日誌」)。
 これらの美術品売買記録については、昭和18年までその詳細を見ることが出来るが、大火の多い函館においては珍しく一度も財産焼失の憂き目にあったことのない小熊も、昭和20年5月の東京大空襲により、自慢の邸宅と愛蔵の美術品をすべて失うという不幸に見舞われたのであった。この年小熊は、元旦の「日誌」に「本年ハ愈々八十歳ノ長壽ヲ迎ヘタリ」と記しているのであるが、5月27日の項には東京からの報告を記載し、「昨日ノ大空襲ノ為メ大火災全焼シタ。予期シ居リタルコト故別ニ驚キモシナイガ、セメテ庫ダケ助ケタカツタ。併シ之レモ運命ダ。家屋ハ前ヨリ覺悟ハ仕テ居ツタガ美術品ハ実ニ惜イ。国家ノ財宝ダカラ…」と感慨を述べている。
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