通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
3 美術界の動向

書画会の画家たち

北条玉洞とその系譜

洋画界の胎動

鈴木巌と山本行雄

赤光社の誕生と函館美術院

大正時代の日本画

函館美術協会の結成

桐田ョ三と彩人社

その後の活動

大正時代の日本画   P897−P900

 大正期に入ると、野田九浦[明治12年−昭和46年]や北上聖牛[明治24年−昭和45年]のように東京や京都で学び、そのまま中央画壇で活動を展開する函館育ちの日本画家もあらわれる。その一方で、関東大震災後の難を逃れるように、大正12年から昭和3年にかけての函館には本州の日本画家たちの来遊が急増する。彼らのほとんどは、当時ですら忘れられかけていた二、三流の老作家であったが、それでも函館で日本画を志す人々にとっては、やはり大きな刺戟となったに違いない。そして、このような時代背景のなかから、大正末期から昭和初頭にかけての函館では、鳳道画会と丹青会というふたつの日本画の団体が相ついで誕生することになる。
 鳳道画会がいつごろ、どのような経緯で結成されたのか正確に知ることはできないが、大正13年4月9日の「函館毎日新聞」の記事「鳳道畫會の一週年記念會」に「来る四月第二日曜日は當市鳳道畫會創立第一週年」とあるため、同会はおそらく大正12年4月12日前後に発足したものと推測される。この記事によると、同会で主要な役割を果たしていたのは谷口玉湖、石川金洞、山本玉渓らで、それぞれ「玉」ないしは「洞」の一字を雅号に用いていることから、おそらく北條玉洞に師事した画家たちであったと考えられる。さらに同記事には同会創立1周年記念会で石川が「顧問帝展委員の諸先生と打合せ」した結果を報告する予定であると記されていることから、鳳道画会が何らかのかたちで帝国美術院展覧会(帝展、文展の後身)出品作家とつながりを持っていたらしいことが知られる。同会は、大正13年4月12日に創立1周年記念会を開いたのち、第2回展を10月31日から11月2日までの3日間、松風小学校を会場として開催した(11月1日付「函毎」)。その内容について、新聞は「郷土に誇る美術の華 鳳道繪畫展」として、出品作のうち山本の《桜》、石川の《天王寺の梅雨》、谷口の《馬方三吉》などが傑出しており、鎌田華堂の《唆山楼閣》は「老巧な筆致を見せ、人々の足を止めさせる大作」であったと評している(11月2日付「函毎」)。また大正14年10月に札幌で開かれた第1回道展には石川、鎌田、山本の3名が函館から出品していることが同展の出品目録から確認される。そして、その後同展には、鳳道画会所属の日本画家のうち、翌15年の第2回展に山本が、昭和2年の第3回展には谷口と加藤秀邦がそれぞれ入選を果たすのである(前出『道展四十年史』)。
 このように、洋画系の赤光社のほかに鳳道画会が活動していた函館で、さらにもうひとつの日本画団体が結成されたのは、昭和2年のことであった。同年5月31日付の「函館新聞」の記事「繪畫研究の丹會組織さる」をみると、武藤雪堂の来函を契機に函館で丹青会が新しく結成され、その創立発会式が末広町東部事務所で同月29日におこなわれたという。同記事には創立メンバーとして斉藤与一郎(非魚)をはじめとする17名の名前が記されているが、武藤が南画家であったことから、これらの創立会員たちは南画を学んでいた人々なのではないかと思われる。その後11月に入ると、「高井一鳩氏等の組織してゐる」丹青会と「函館に於ける日本畫の研究機関として古い歴史を持つてゐる」鳳道画会が共催して「巴港美術展覧會」を開催する予定と新聞で報じられ、同展が22日から24日まで末広町の丸井別館で開催されることや、出品作品は、函館を中心とした北海道各地のほか「奥羽」6県からも集まっていることを伝える(21日付「函新」)。このうち函館在住の主な出品作家として名前が挙げられているのは、「函館滞在中」の武藤のほか、新井芳宗、谷口玉湖、中川雅山、それに高井らであり、大正13年に来遊した新井(同年2月11日付「函毎」)は、この時まで足かけ4年も函館に在住していたことがわかる。ちなみに武藤と高井は、「巴港美術展覧會」に先立つ9月に開催された第3回道展に谷口らとともに入選を果たしている。しかし22、25日付の「函館新聞」紙に「巴港美術展覧覽會」の代表的な出品作として掲載された谷口玉湖の屏風作品《孔雀》と武藤の作品の図版をみると、前者はあたかも北條玉洞の明治30年の同主題作を想起させるような古めかしい作風を示しており、一方後者も、いかにも軽い内容の作品であることから、同展の出品内容の水準は、全体に決して高いものではなかったように思われる。事実、11月28日の「函館新聞」紙に「巴港美術展観覧記」を寄稿した赤光社の池谷寅一は、「谷口、高井、鎌田の諸君の繪には惜しむらくは繪品がない」というように出品作のほとんどを酷評しており、一方同じ紙面で近岡外治郎も「澤山ならんで居りますが粗密とりどりによいものが見當りません」「谷口氏の裸体美人は苦笑の他ありません」と述べているのである。
 だが、ほとんどの出品作の完成度が洋画家から見ても低いものであったとしても、ふたつの日本画団体が共催して、規模の点では洋画家に批評させるに値する日本画展を開催したことは、画期的なことであったといえよう。なぜならば、「巴港美術展覧會」が開催されることにより、北條玉洞亡きあと赤光社のみを主軸としていた昭和初期函館の美術界が、ようやく言葉本来の意味での多様性をそなえた″画壇″へと再編成される気運を芽ばえさせたからである。
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