通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
3 美術界の動向

書画会の画家たち

北条玉洞とその系譜

洋画界の胎動

鈴木巌と山本行雄

赤光社の誕生と函館美術院

大正時代の日本画

函館美術協会の結成

桐田ョ三と彩人社

その後の活動

北條玉洞とその系譜   P885−P889

 南宗派の画家たちに代わり、明治20年代から大正初頭にかけての函館の絵画界で主流を占めるようになったのが、北條玉洞[嘉永5年−大正12年]とその弟子たちの活動である。北條は、先述した第2回内国絵画共進会開催の折に発行された『出品人畧譜』(明治17年5月)によれば、少年時代に盛岡で地元の画師の平塚研樵と川口月嶺から作画を学んだという。その後、明治7年頃に上京(大正8年7月27日付「岩手日報」)したのち「東北七縣下ヲ遊歴」(『出品人畧譜』)し、11年に開拓使雇、15年には函館県地理課雇などの官職について地図製作などの仕事に携わったらしい(北條自筆『履歴』、北海道立文書館蔵)。また、この前後に明治期東京画壇を代表する円山派の画家・川端玉章[天保13年−大正2年]に師事していることは間違いない(『現今画家人名』明治30年、宮内省調度寮文書)。
 さて、明治15年に函館で北宗派の画家として活動し、17年の第2回内国絵画共進会には第5区(円山派等)の部門に札幌から出品していた北條のその後の足跡であるが、19年4月の東洋絵画共進会にも札幌から2点の作品を送っていたことが同会出品目録により知られる。この時の雅号は白鱗であり、在住地は「石狩國札幌南三條西五丁目七番地」と記されている。ついで、そののちに室蘭に転勤となり、22年中には再び函館の地を踏むことになったらしい。また、雅号を玉洞と改めたのもこの頃のことのようである(『繪畫叢誌』第33巻、明治22年12月)。以後、北條は青柳町の自宅で死去(大正12年2月14日付「函毎」)するまで函館を主な根拠地として、日本美術協会主催の美術展覧会のほか、明治28年の第4回内国勧業博覧会や32年の第7回日本絵画協会・第2回日本美術院連合共進会などの東京の美術展覧会に円山派の画法による花鳥動物画、風景画を出品する(『日本美術協会報告』ほか、各展覧会・博覧会出品目録)。そして、この間には日本美術協会々員のほか、日本絵画協会評議員、日本画会々員となっていることが確認され(各会員名簿)、北條が明治中後期を通じて中央画壇でも保守的伝統主義の円山派の画家としてそれなりの評価を得ていたことがわかる(『明治四十三年度 日本美術年鑑第壹巻』明治44年、畫報社)。
 しかし、こうした制作活動とともに函館での北條の業績のなかで何よりも特筆されるのが、美術教育者としての活動である。はじめ北條は24年頃までに曙町に画塾を開設したといわれ、その後、25年11月に「絵画専門学校」を創立(明治25年『函館区統計書』)、ほどなく同年中に汐見町に校舎を転設したとみられる(佐藤慶吉『函館沿革史』明治32年)。その後、同校は27年中に青柳町に移転(『函館沿革史』)、さらに37年以降は「(玉洞)絵画学校」と改称する(『明治三十七年北海道廰學事年報』)。そして、少なくとも大正初頭には春日町に校地を移していたが(大正元年『函館区統計書』)、いずれにせよ北條は制作活動の一方で、同校を舞台に函館での後身の指導育成に力を注いでいくことになるのである。同専門学校の修業年限は創立当初は3年間と定められていたようであるが、やがて明治30年代までには4年間に延長されるなど(『明治三十三年北海道廰學事年報』ほか)、教育カリキュラムも漸次充実整備されて北海道で最初の本格的な美術教育機関の名に恥じない教育活動を展開した。たとえば、同校卒業生の平澤華洞(はじめ花洞。本名トシ子)の東京在住の遺族のもとに残された史料のなかには明治27年6月に開催された絵画専門学校の校内絵画展覧会での石版刷賞状などがみいだされるが、これらによれば、同校では定期的に校内競技会を催して生徒らの成績を審査発表し、修業の励みとしていたことがうかがわれる。そして、このような絵画専門学校で美術教育を受けた卒業生のなかからは、明治20年代末以降に函館で画家として制作活動を展開する者が少なくなく、28年6月発行の『巴港詳景 函館のしるべ』の「函館の文人と書畫家」の項目には、北條玉洞とその「門生にして業を卒へたる」北山玉容、小貫玉僊、高橋玉眞、渡邊玉亭、齋藤玉修、(以下は女流画家)平澤華洞、林梅洞の計8名の円山派画家の名前が挙げられており、17年の第2回内国絵画共進会に出品経験を持つ北宗派の古谷竹溪(17年当時は古屋竹逕)や齋藤螺山、大谷巖翁、高橋竹烟、杉浦鏡華、眞壁耕山ら南画文人画家たちを数の上では庄倒しているのである。このほか北條は明治25年から28年にかけてと32年から大正7年にかけての時期に函館商業学校で図画教員をつとめたほか、明治28年から39年にかけては函館中学校で、38年から大正4年にかけては函館高等女学校でもそれぞれ教鞭をとっている(金子一夫『近代日本美術教育の研究−明治時代』平成4年)。また、明治35年6月15日には絵画専門学校創立10周年を記念した「函館絵画展覧会」が同校校舎内で初日を迎え、同年7月の『日本美術』誌第42号によれば「全國畫家に出品を求め」「其出品凡そ四百点に達し」たという。
 このように、明治20年代以降の明治の函館絵画界はほぼ北條玉洞一門に席捲されたかの観があったが、このほかにも古書画の観画会などは10年代に引き続き盛んに催され、26年3月5日に蓬莱町の金仙楼で第1回目の集会を開催した「函館尚美会」などは、「随分珍らしき古書畫等もありて頗る賑はひたり」と『繪畫叢誌』同年4月号でその様子が全国的に報じられたほどであった。また、34年8月12日から29日にかけて函館公園内の協同館で開催された「函館美術展覧会」は、東京彫工会々員の木村芳雨や金工家の香取秀眞を中心とした東京側委員10数名と林区長をはじめとする函館側委員の共同企画により実現した函館で初めての特別美術展覧会であり、橋本雅邦や川端玉章らの絵画作品のほか、東京彫工会々員らによる彫刻、金工作品の計600余点が東京から出品され、『繪畫叢書』のみならず『京都美術協會雑誌』でもその盛況ぶりが伝えられた大規模なものであった。一方、明治30年代なかば以後になると、北山晃文が来函して35年に函館商業学校で、同年から41年までは私立函館大谷女学校で図画科の教鞭をとったほか、函館中学校には40年から41年にかけて有安玉年(本名助二、神奈川県出身)が、ついで41年から大正8年までは山縣雨香(本名丹治、秋田出身)といずれも東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科の卒業生が図画科教員として赴任するなど、北條玉洞に加えて本格的な美術教育を受けた複数の日本画家たちが函館で制作活動をおこなっていた(前出『近代日本美術の研究−明治時代』)。
 こうした明治20年代以降の円山派を中心とした函館での日本画の隆盛が頂点を迎えたのが大正2年のことであり、同年5月4日から3日間の日程で函館図書館を会場として開催された「丸(ママ)山派絵画展覧会」は、「北條玉洞氏門下の天勢会同人が發起となり圖書館後援の目的を以て賣上高の2割を圖書館へ提供すべく」実施された函館初の有料特別美術展覧会であった(5月2日付「函毎」)。しかも、同展は、在函画家ばかりではなく東京と京都の円山派の作家からも出品を募り、「出品数無数にて目下鑑査中の由」と報じられたように入選審査を実施するという、東京では一般的となっていた公募美術団体展の形式を完全にそなえたものであった。一方、東京や京都ではすでに時代遅れの存在となっていた保守的な作風の南宗派画家たちの来函が相つぐようになったのも、やはり明治末期から大正初頭にかけてのことであった。これは、表面上は函館の絵画界が北條玉洞の率いる円山派の日本画家たちにより主導権を握られていたとはいえ、富裕な階層の人々や文化人たちの美的価値観は依然として江戸末期、明治初頭以来の文人趣味を基調としていたため、何事にも保守的な傾向を持つ函館の文化的土壌には受け入れられやすかったからではないかと考えられる。そして、このことを裏づけるように、高島北海、小山正太郎、中村不折ら日本美術協会や文部省美術展覧会(文展)を活動舞台とする保守的作風の日本画家、洋画家たちの売絵約160点を展示即売する「現代名家絵画展覧会」(東京・美術正論社主催)が大正2年9月24日から28日まで公会堂で開催され、好評を博したのである(9月24日「函新」)。
 また、大正2年発行の『明治畫史大正畫家列傳』(文陽堂)には北海道在住の日本画家として11名が掲載されているが、うち3名が北條玉洞、山縣雨香、それに円山派の画家で秦玉圃といった函館の作家たちであり、他が札幌3名(金子邦光、佐々木泉溪、菅原翠洲)、旭川町1名(笹谷琴隆)、浦河町1名(巻田月香)、上川町1名(鹽田竹翁)、滝川1名(山根司)、利尻郡鬼脇村1名(山本峰月)であることから、北海道全体の日本画家たちの中で全国的にその活動が認められていた人々のうち、函館の作家が占める割合が大きなものであったことがわかるのである。
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