通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

1 市民生活の変容とその背景

3 市民の娯楽−劇場・映画館−

座から館へ

トーキー時代へ

繁華街の要因

座から館へ   P709−P712

 市民の娯楽の場としての各種の興業の場は、江戸時代の中頃から山之上町あたりの芝居小屋というかたちで、すでに登場していたという(『函館市誌』函館日日新聞社、昭和10年12月)。
 万延元年の「官許/箱館全図」をみてみると、実行寺の裏手、七面坂の登り口、右手に「定芝居床」という記入がある。
表2−173 函館の劇場(明治・大正期)
【明治40年】
名称
住所
設立年
 
池田座
大和座
函館座
巴座
竹内亭
北海亭
宝町38※
宝町27※
?澗町
東川町209※
恵比須町
恵比須町
M16
M14

M30
席亭
席亭→





明治40年『最新函館案内』
※は明治43年『電話番号簿』
●は明治治40.8.25の大火で焼失。
【明治44年】
名称
住所
設立年
 
池田座
大和座
函館座
巴座
竹内亭
登楽亭
錦輝館
共盛座
勉強堂
宝町
宝町
大黒町
東川町
恵比須町
弁天町
蓬莱町
若松町
宝町
劇場
劇場
劇場
劇場
寄席
寄席
寄席
劇場
寄席
 
明治44年5月『函館商工一班』
【大正12年】
名称
住所
設立年
 
大黒座@
巴座
錦輝館
錦座
宝来館
音羽館
寿館A
電気館
キネマ館
松風
弁天座
永楽座
万歳館
旭館B
錦盛館
エビス倶楽部
演芸座
平和座
巴館
大黒町78
松風町291
蓬莱町151
宝町38
宝町27
音羽町64
松風町264
松風町260
鶴岡町58
松風町295
台場町1
蓬莱町123
松風町263
旭町240
大縄町20
蓬莱町119
松風町291
相生町28
弁天町15
演劇活動写真
演劇活動写真
活動常設
演劇活動写真
活動常設
活動常設
活動常設
活動常設
活動常設
寄席
活動常設
活動常設
活動常設
活動常設
活動常設
活動常設
寄席
寄席
寄席

 

 

大正12年11月発行『函館商工名録』
所有者 @本間清司:海産商
      A佐藤辰三郎:人夫請負業 
      B三上房吉:浴場
       大正12年『北海道人名辞典』
(渡辺道子氏の調査による)
 明治初年から、芝居小屋、寄席は増設されるようになり、明治28年には「新蔵前」との名称で東川町に「興行認可地」が設定される、東京の浅草六区のようなかたちの盛り場になったらしい、その外、明治32年頃各所に竹内亭、登楽亭など寄席が10か所ほどもできるようになる(前掲『函館市誌』)。火事の影響などで、増減もくりかえされていたようであるが、明治期には、大体この位の箇所で興行の場が存在していたらしい(表2−173参照)。「改正函館港全図」には、「有名ヶ所町分」の表が記載され6か所の寄席、劇場があげられているが、そのうち池田座、大和座、巴座、函館座は、所在地が地図上に明示されていて、その位置を知ることができる。
 明治の終りごろになると映画の常設館ができる。東京でも常設館は、明治36年10月浅草の電気館が最初であった(『近代日本総合年表』岩波書店 1968年)というから、明治42年1月に、映画常設館として営業をはじめた錦輝館(『続函館市史資料集第2号 市史年表草稿』市史編さん事務局、昭和47年3月。表2−173では錦輝館は寄席となっているが)は、大変新しく珍らしい興業の場だったのである。場所は蓬莱町、現在の宝来町電停付近、銀座通りの一角を占め、当時の繁華街、歓楽街の只中という感じの位置である(『函館・都市の記憶』所載の地図による)。明治40年の大火では、かなりの劇場、寄席も被災しており、それぞれ再建されるが(表2−173参照)、その間に新しい興業もの、映画が登場する機会ができたようにみえる。
 大正10年4月にも大火があって(2100戸以上焼失)出火地点が新蔵前だったこともあって繁華街は、松風町方面へ移ったようだったが、映画館も大幅に数を増して松風町あたりに位置するものが目立った(表2−173参照)。映画館の規模も大きくなって、大量の観客を収容するようになる。大正4年7月に開設された音羽館(音羽町)は、1400人も収容する規模、翌5年改築された錦輝館は3階建、大正10年類焼後の再建では2100人収容にまでなった(『函館大正史郷土新聞資料集』元木省吾 昭和43年8月)。
 この頃の興行には、東京歌舞伎の大名題、片岡市蔵らの巴座公演(大正9年7月)のような大きな催しのほか、浪曲、落語、漫才、新派演劇など様々なものがあったが、観客動員の中心は、映画に移って来ていた。大正7年の興業の状況は、歌舞伎7回、新派38回、相撲2回、手品2回、浪花節115回、義太夫62回、落語58回、活動写真338回(2289日)、掛小屋212回だったという(前出『資料集』)。大正9年7月中の興業関係新聞広告(○○新聞朝刊)の様子で見ても(渡辺道子氏の広告調査資料による)、総件数63、「実演喜劇」、「実演新派」、「魔術」、「浪曲」などの実演関係のもの12件で、あとは、すべて映画の広告であった。そのうちアメリカ映画など洋画の広告が38件もあって、アメリカ映画は見あきてしまったという雰囲気も出て来たという、市民があきるほどに映画館に通ったということであろうか(前出『資料集』)。映画の観客動員数については、表2−174のような数値が知られる、市民1人が1年に10回は映画を見る計算になるというようなことも示されている。
表2−174 函館市民の映画館入場状況
 
人数
備考
大正8年
10年
11年
12年
13年
1,412,817人
1,417,702人
1,200,000人以上
1,455,888人
 933,648人
常設館13館
市民1人1年10度

常設館13館
昭和10年
11年
13年
17年
1,631,784人
3,195,239人
 625,187人
2,643,091人

市民1人1年15回 常設館7館

市民1人1年9回
『函館大正史郷土新聞資料集』、『函館昭和史郷土新聞資料集』より
昭和13年の分は税務所の統計による、とある。
  (参考)
 
入場者数
昭和11年
12年
13年
14年
15年
16年
1,667,711人
2,076,464
2,650,993
3,333,596
3,903,769
3,176,508
各年『北海道庁統計書』による
 映画が大人気なのは、「時間が経済、開場時間が文明的」だからなのだという。夕方5時位から開演、夜の10時前位に終演、時間は正確に上演され、庶民の毎日の仕事が終えてからの時間帯にあわせてあり、日曜日などに2回興業というのも実施していたのである。歌舞伎公演などになると、午後3時に開演となっていて、実際には、時間どおりには、はじまらぬ、など「文明的」でなかったのである。入場料金も、大きな差があった。歌舞伎、演劇では、1円50銭、安い席でも50銭、それが映画なら20銭、子供なら10銭でも見られたのである(前出広告資料による)。
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