通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第6節 民衆に浸透する教育

2 昭和初期の教育

2 中等学校

中学校教育の全国的動向

市内中等学校の教育状況

庁立函館工業学校の位置変更

庁立函館商業補習学校の廃止

教化総動員運動の展開

青年学校の発足

中学校教育の全国的動向   P677−P678

 大正期の拡張の結果増大を続けてきた学校数および生徒数が、停滞と減少の傾向に転じたのが、昭和初期の不況の時期である。この時期に、学校数はわずかながら増加するものの、その勢いは鈍く、不況の影響がみられる。一方、生徒数は減少に転じ、不況の影響を顕著に示しているといえる。
 大正期における中学校入学者の志願者に対する比率は50パーセントを割り、入学難の様相をみせていたが、大正末期における学校の増設に伴って好転し、学校数の増加が学校間格差を生み出して特定校への志願者の集中が入学難をもたらすこととなった。そうした事態を背景に、昭和初期には入学試験制度の改革が実施に移される。昭和2年11月、中等学校入学者選抜は従来の学科の筆記試験を廃止し、小学校の内申書を基礎に、人物考査と身体検査によって行うこととなった。この場合の人物考査は、口頭試問によって行われた。試験の廃止は好評であったが、実際には客観性の確保が疑問視され、同4年11月、再び選抜方法の改革が行われ、人物考査は口頭試問で、筆記試問の方法も加えることができるとされ、普通の内申書のみで入学の拒否は出来ないこととなった。この改革は実質的に試験を復活させるものであった。
 中学校入学者の家庭の職業については、大正期にすでに「農業」の構成比率が減少を示し「公務及自由業」の増加の傾向が明らかになっていたが、昭和期に入るとこの傾向はいよいよ顕著になる。中学校が地主層の子弟を主たる対象とする学校から、新中間層中心の学校へと変容をとげる動きが一層明白になったといえる。
 昭和初期の不況期には中学校卒業者の進学率は急激な減少をみせ、30パーセント近くにまで低下している。
 大正から昭和に至る時期の中学校の教育課程の改訂の方向は、中学校の普及と拡充に伴って大衆教育機関化し、入学者が異質化して、卒業者の進路も変化する状況に対応して、高等普通教育の理念の修正がはかられたことを意味している。具体的には、昭和6年1月「中学校令施行規則」の改正による第一種課程と第二種課程の設置で、進路の変化に応じて中学校の上級学年に就職のための一種と進学のための二種の区別を導入するものであった。教育課程の改訂のもう1つの内容として、昭和6年の公民科の設置がある。法制および経済の改廃のかたちで政治・経済・社会に関する知徳の育成を目指すもので、特に遵法精神や共存共栄の本義の体得を重視していた。
 このほかにも、昭和6年の改訂によって一種課程に実業が必修とされ、一種、二種に共通に作業科が必修とされた。さらに、それまでの博物・物理および化学は理科となったが、この変更には実科教育的な意義が加えられていた。
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