通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第6節 民衆に浸透する教育

2 昭和初期の教育

1 初等教育

欠食児童

尋常夜学校

学齢児就業率の上昇と教育費の重圧

授業料問題

続く二部教授

欠食児童   P669−672

 実質的な昭和の幕開けとなった昭和2年は、金融恐慌で始まった。続いて起こった昭和恐慌は、全国的に大きな影響を及ぼしていったが、函館の場合も例外ではなかった。市内の新聞は失業者の増大を伝え(昭和7年5月10日付「函毎」)、中等学校生徒の中途退学者の激増を報じ、深刻な事態の進行を伝えていた(昭和7年9月15日付「函毎」)。不況の影響は小学校の児童をも襲った。昭和7年9月9日の「函館毎日新聞」は、「市の欠食児童急激に増加す」という見出しで、市内の小学校の欠食児童の数が366人に達し、栄養不良の児童が496人もいることを報じていた。まるで昭和期の子どもたちがたどる苦難の道を予告するかのような記事であった。欠食児童の分布は市内17校に及んでいた。こうした事態に、各種団体による救済資金募集運動が展開され(12月8日付「函毎」)、12月現在の募金総額は1003円98銭に達した。これに対し市当局は、「小学校児童中其ノ家庭貧困ニシテ通学シ得ザルモノ不尠ヲ以テ之等児童ニ対シ学用品並被服ノ給与、給食等」就学奨励上相当の対策を講じている。特に7年度からは「各小学校欠食児童ニ対シパン食ヲ廃シ、栄養価ヲ考慮セル弁当給与スルコトニ改」めた。この弁当は財団法人函館共働宿泊所が請け負い、「弁当一食分金五銭」「配給実人員四百七十人」だった。「実施後日尚浅キニ拘ラズ相当ノ結果ヲ収メタリ」と報告されている(『函館市昭和七年事務報告書』)。
 この給食費について、昭和8年12月19日の「函館毎日新聞」は、前年12月に比べて欠食児童の数が175名増加しているにもかかわらず、道庁の予算減額のため2月以降の実施が危ぶまれる事態に直面していることを報じていたが、翌9年の『事務報告書』は前年通り実施したことを伝えており、しかも支給人員は919人に及んでいることを報告している。その後同10年には支給対象児童は850人に減少するが、11年に900名前後いることが報告書に記録されている。続いて市の『事務報告書』は、12年の欠食児童数を700名前後とし、13年には486名、14年324名と次第に減少していく状況を記録している。
表2−157 壮丁教育調査の結果
年度
尋常小学校を卒業せざる者
総数(A)
貧困こよる(B)
B/A×100
昭和3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
204
184
203

123

100
99
99
71
44
27
120
120
107

110

90
76
76
38
31
22
65
65
53

89

90
77
77
54
70
81
注)『函館市事務報告書』により作成。
 欠食児童への給食支給は、『函館市事務報告書』では、昭和11年以降「就学奨励施設」の中に含めて表示され、学用品および被服の支給を補う就学奨励施策とされている。この時期の就学奨励施策は、不就学の主要な原因をなしていた貧困への対策の形を取ることとなっているのである。ちなみに昭和3年以降14年までの時期に徴兵適齢の壮丁に達した男子は、大正3年以降昭和6年までの期間に小学校尋常科に在学したものと考えられるが、それらの壮丁のうち尋常小学校を卒業していない者の数は表2−157のとおりである。これら尋常小学校を卒業していない者のうち、貧困を理由とする者の数は、年度により変動はあるものの、全体の半数を越え、年によっては9割を占めている。このことからみても就学奨励施策として「家庭貧困ニシテ就学シ得ザル者」を取り上げるのは妥当な措置であったといえる。
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