通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展

4 母船式鮭鱒漁業の展開

沖取鮭鱒漁業の始まり

平出漁業と母船式鮭鱒漁業

母船式鮭鱒漁業の発展

企業合同への道

合同「太平洋漁業」の成立

沖取漁業への農林省の対応

合同会社「太平洋漁業株式会社」の成立

平出漁業と母船式鮭鱒漁業   P606−P607

 母船式鮭鱒漁業は、缶詰その他の加工品を製造する設備を持った大型汽船(母船)と付属漁船(独航船)が一体になり、独航船が漁獲した鮭鱒を母船で缶詰、あるいは塩蔵品に生産する事業のことである。創業当初は、これを「沖取漁業」と呼んでいた。操業規模が拡大し独航船の数が増加すると、母船は、漁獲物の製造加工に加えて、独航船に対する物資の補給や全体の操業を統括する機能を持つようになるが、母船と独航船が一体となる集団操業の形態を母船式漁業というのである。

平出喜三郎創業当時の沖取鮭鱒母船
(『産業の函館』昭和14年)
 前述した沖取漁業が母船式鮭鱒漁業として本格的に展開するのは、昭和期以後のことであるが、その先鞭をつけたのは、函館市の平出喜三郎(2代目)などが始めた沖取漁業であるという(前出『母船式鮭鱒漁業誌』)。昭和2年、平出喜三郎と高松喜六らが太平洋漁業合資会社を創立し、イギリス有数の食糧品商社クロス・エンド・バラックウェル商会(C・B商会)より13万5000ポンドの融資を受けて、缶詰機械を搭載した母船を導入し、建網で漁獲した鮭鱒を缶詰に生産する本格的な母船式鮭鱒漁業を開始した。操業体制は、母船2隻(汽船神武九重量7000トン級、汽船ヨーロッパ丸重量5000トン級)、製造設備8ライン、建網6か統、漁夫350名、雑夫750名、運搬船3隻という大規模なものであった。しかしこの時採用された沖合の建網漁法は、技術的にはいまだ試験段階のもので、その成否が危ぶまれていたのである。操業はカムチャツカ西岸オゼルナヤ沖合で行われたが、懸念された建網の構造上の欠陥や、予測しなかった潮流の変化、さらには操業経験の不足などが重なり、結果は、缶詰15万函の生産計画に対して、実績はわずかに700函、収入は塩蔵品その他を合算しても5万円と、惨憺たる結果に終わった。
 翌3年再起を因って出漁の準備にかかろうとしたが、前述のC・B商会の資金援助が得られず、平出たちの試みは1年で挫折した。しかし、この経験はこの後沖取漁業に進出を企てる漁業者には多大の刺激と教訓を与えた。漁法では、建網の失敗を転機に流網の導入が検討されるようになり、流網技術の開発が母船式鮭鱒漁業の本格的な発展を可能にしたのである。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ